三島由紀夫が旅行記に書かなかったこと

 先月、「右翼」の三島由紀夫が初の岩波文庫入りということで、話題になった(まあ、海外の著者なら、既にエドマンド・バークとかも入っているが)。中身が旅行記だったので、特に興味もなかったが、水声社ヘンリー・ミラー・コレクション『対話・インタヴュー集成』に収められた、米谷ふみ子の「ミラー、メイラー会談傍聴記」(初出は『文學界』1985年10月号)を読んで、考えが変わった。

 1976年、ノーマン・メイラーは『天才と肉欲』という本を出した。中身は、ヘンリー・ミラーの小説・エッセイの長い抜粋と、メイラー自身による解説を付けたもので、「会談」はその本の出版を記念して、NBCテレビ「トゥデイ・ショウ」が企画したものだった*1。米谷は、夫が「トゥデイ・ショウ」のインタビュアーと知り合いで、ミラー・メイラー対談の企画のアドバイスをしたことから、当日のそれに参加する機会を得たのだった。

 対談では、ミラーがメイラーの本をきちんと読んだことがないと告白していて面白い。ミラーはメイラーの文章が難しすぎると言っているのだが、確か『回想するヘンリー・ミラー』の中でも、同じようなことを言っていた。ミラーの言を受けて、後輩モードだったメイラーも「ヘンリーのも単純な文章で書いたのは好きですが、ややこしくなると嫌になります。『マルーシの巨像』は性描写の所は好きだが他は好きじゃありません」と反撃している。実際、『天才と肉欲』の中でも、『マルーシの巨像』については批判的で、文壇受けを狙ってわざと上品に書いたのだろうと、難しいレトリックを使いながら回りくどく叙述している。

 対談の録画が終り雑談に入った時、谷崎の話題になって、日本人繋がりで三島にも話が及ぶのだが、ミラーはドイツで三島と会ったことがあるらしい。また、メイラーも三島と会ったことがあるらしく、「三島がうちにやって来たのは、ちょうど僕達の結婚がうまく行っていなかった時なんだ。どう彼を扱っていいのか判らなかったね。彼はただゲラゲラ笑っていたのでね」と語っている。

 そこで、三島の旅行記にミラーやメイラーと会った時のことが書いてないか確かめようと思い(特にメイラーについて)、とりあえず例の岩波から出た『三島由紀夫紀行文集』とちくま文庫の『外遊日記』などを読んでみたが、残念ながらミラーやメイラーのことに触れている文章はなかった。余談だが、『源泉の感情』に収録されている安部公房との対談で三島は、メイラーやミラーの饒舌さについて苦言を呈している。

 松本徹編『年表作家読本 三島由紀夫』を見ると、三島がアメリカを訪問したのは、1952年、1957年、1960年、1961年、1964年、1965年の計5回。メイラーの「僕達の結婚」という発言が、63年に結婚、80年に離婚したビバリー・ベントリーとのことを指しているなら、64年か65年が対面の時期ではないか。三島が65年に訪米した理由は、『午後の曳航』のプロモ活動のためで、この時ニューヨークで大江健三郎とも会っている(ジョン・ネイスン『三島由紀夫 ある評伝』)。

 旅行記を諦め、メイラーについて語っている文章の中に、出会いのことが書いてないかと思って探したら、『ぼく自身のための広告』の書評の中に簡単に見つかった。

 

 余談ながら、わたしはニューヨークでメイラーに会ったことがあり、その機関銃のようなしゃべり方を、自ら「甲高くて、鋭くて、非常に早口で(中略)まるでヒットラーみたい」と評している(下巻一四一ページ)のには、微笑を禁じえなかった。

 その後かれは、わたしの戯曲集に対する完膚なきまでの悪評をのせた「ヴィレッジ・ヴォイス」の切抜きを、ご親切にも、わざわざ送ってくれたりした。(引用は、虫明亜呂無編『三島由紀夫文学論集Ⅲ』より)

 

 互いに、コミュニケーションをとれなかったのは相手のせいだとしているところが、自己中心的な二人の性格をよく表しているようで苦笑を禁じえない。しかし、この書評は、1963年に書かれたもので、俺の推測はどうやら間違っていたようだ。とすると、出会ったのはそれ以前となるが、61年はサンフランシスコのみの滞在なので除外するとして、多分、57年かもしれない(ということは、メイラーの言う「僕達の結婚」とは、54年に結婚し、62年に離婚したアデル・モラレスとのことか。メイラーはモラレスのことを60年にペンナイフで刺して、スキャンダルになっている)。三島の「わたしの戯曲集」とは、57年にクノップ社からドナルド・キーン訳で出版された『近代能楽集』のことだろう。ただ、「ヴィレッジ・ヴォイス」に掲載されたという書評は見つけられなかった。米谷のエッセイによると、メイラーは三島の本を読んだことがないということなので、執筆したのは別の人間と思われる。ちなみに、『近代能楽集』に収録された、「班女」、「葵上」は、60年にニューヨークで上演され、三島はそれを観ている。

 三島とメイラーの交流は、初対面→『近代能楽集』の書評が「ヴィレッジ・ヴォイス」に掲載される→「ヴィレッジ・ヴォイス」が三島の元に送られる、という流れなので、出会いも書評も57年に起きた出来事だと考えるのが一番すっきりしているのではないか。57年のアメリカ滞在については『外遊日記』に収録されている「旅の絵本」において、その多くを語っているが、メイラーのことについて書いていないのは、あまり良い思い出ではなかったからか。

 

 メイラーはミラーの『マルーシの巨像』について「あまりにもきれいごとすぎる」と書いたが、三島の旅行記についても同じような印象を持った。それは、表面を撫でて通り過ぎていくような感じで、高級な旅行パンフレットのようなのだ。『マルーシの巨像』はミラーが「性交の国」と手を切って書いたものだとメイラーは評したが、三島の旅行記も性的なことがまったく書かれていない。実際、三島はそういうことがあったのに、あえて書かなかったのだ。それを暴露したのが、ジェラルド・クラークの『カポーティ』である。

 

 (前略)事実、三島とトルーマンには多くの共通点があった。二人ともほぼ同じ年頃で、ホモセクシュアルであり、早くに名声を得た。五七年の一月六日に、三島は彼とセシル(注:セシル・ビートン)を歌舞伎見物に連れて行き、それから楽屋で、主演の役者に引き合わせた。翌日の晩には料亭で二人をもてなし、紅灯の港を案内した。

 ごく自然な友情のように見えた二人の関係だが、それ以上はあまり発展しなかった。三島がその年の夏にアメリカを訪問したが、そのあとで、トルーマンは日本で歓待した自分の恩義にむくいなかったとぼやいた。トルーマンはその非難は当たらないと言った。「ぼくは彼に親切にしてやった」と主張する。「彼は白人のでかいコックをしゃぶりたいと言ったんだ。(どうしてぼくにそういう斡旋ができるとみんなが考えるかわからない。なにも売春の取りもちの仕事をしているわけじゃないんだから──もっともそういう知り合いがたくさんいることは認めるけどね。)僕は一人の友人に電話をし、彼が三島と一緒に出かけたのは確かだ。ところが三島はお礼の電話もよこさなかったし、その男に代金も払わなかった」(中野圭二訳) 

 

 これも時期的には、「旅の絵本」と重なるのだが、そこにはカポーティの「カ」の字もない。三島は死ぬまで、自分がホモセクシュアルであることを公にはしなかったので、中には三島のゲイ的な要素はポーズだと考えていた人もいたようだ。

 三島の旅行記は、このように書かれていないことがいくつかある。むしろ、書かれなかったことの方に本質があるような気がしてならない。

 

 

対話/インタヴュー集成 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

対話/インタヴュー集成 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

 

  

天才と肉欲―ヘンリー・ミラーの世界を旅して (1980年)

天才と肉欲―ヘンリー・ミラーの世界を旅して (1980年)

 

  

回想するヘンリー・ミラー

回想するヘンリー・ミラー

 

  

マルーシの巨像 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

マルーシの巨像 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

 

  

三島由紀夫紀行文集 (岩波文庫)

三島由紀夫紀行文集 (岩波文庫)

 

  

  

三島由紀夫 (年表作家読本)

三島由紀夫 (年表作家読本)

 

  

三島由紀夫文学論集III (講談社文芸文庫)

三島由紀夫文学論集III (講談社文芸文庫)

 

  

カポーティ

カポーティ

 

 

*1:ちなみに、『天才と肉欲』の翻訳は1980年に出たのだが、訳者の野島秀勝はあとがきで「すでにわが国ではミラー「全集」は出ている、が、正確にいって、それは「全集」ではない。削除版にすぎない。むしろ読者は、このメイラーの<アンソロジー>によって、ようやくミラーという現代の怪物、さらに現代そのものの迷宮に入り得るアリアドネーの糸を与えられたのだと、わたしは自信をもって言うことができる」と書いているので、無削除版ミラーは、水声社よりも『天才と肉欲』の方が早かったと思われる。