第二芸術としてのアフォリズム
俺は文芸の様式の中でも、アフォリズムや逆説といったものが嫌いだ。具体例を挙げると、アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』、芥川龍之介『侏儒の言葉』、三島由紀夫『不道徳教育講座』、シオランなど。昔、桑原武夫が俳句について「小説や近代劇と同じやうにこれにも『藝術』といふ言葉を用ひるのは言葉の亂用ではなからうか」と書き、「しいて藝術の名を要求するならば、私は俳句を『第二藝術』と呼んで、他と區別するがよいと思ふ」として、大きな議論を巻き起こしたが、俺の上記の作品に対する感想もそれと同じである。だから、筒井康隆が70近くにもなって『筒井版 悪魔の辞典』を出した時は、「あなたそういうレベルの作家じゃないでしょ」と逆に文句を言いたくなった。高校の時『悪魔の辞典』を面白がっている同級生がいたが、結局のところその程度のものでしかないというか、大人が真面目に読むものではないと思う。
三島由紀夫はラディゲやオスカー・ワイルドの影響から、文章にアフォリズムや逆説を意識的に組み込んだ作家だ。三島の本を何冊か読んでその仕組みに気づくと、「常識をさかさまにしてるだけじゃないか」と苛立つことも多い。それが一番上手くいったのが『近代能楽集』で、ある意味「上手すぎる」と感じるほど。逆に、一番露骨でくだらないと思われるのが『不道徳教育講座』。あえてショックを与えようとする見出しからして、昨今ネット上で跋扈するバズ狙いの挑発的記事に似て、不快ですらある。
『悪魔の辞典』や『不道徳教育講座』などは、冗談の一種として受け止められるような作りではあるが、問題はシオランである。シオランに関しては本気で評価する人間が少なくない。そういう人たちはシオランの本を読んで「元気が出る」という。島田雅彦が浅田彰とニーチェについて対談した時、その冒頭で「いわゆる肉体の疲れとしての疲労ではなく、精神的疲労というか、自分の思考が余りうまく回転しなくて何となく疲れているような状態の時があり、その時にニーチェがスーッと入ってくるんです。一種励まされるという感じがあるんですよ」と語っていたが、それと同じようなことだろう。つまり、シオランやニーチェというのは、やや知的でネガティブな人間のための自己啓発らしいのだ。
俺はシオランに対する嫌悪をもう少し掘り下げるべく、パトリス・ボロンの『異端者シオラン』という本を読んでみた。ボロンはジャーナリストで、晩年のシオランと知り合いでもあった。
『異端者シオラン』の序論では、世間では人間嫌いと思われているシオランが、実はそれなりの社交性を有していたと好意的に語られていて(そういうところは、わが国の中島義道を思い出したりもした*1)、また、無礼な真似をされても怒ったりしなかったらしい。シオランの人生全体を見渡しても、22歳にして処女作を出版し文壇から認められ、31歳の時には生涯の伴侶を見つけ、フランス語で書いた著作はプルーストの原稿を蹴り飛ばしたガリマール書店から出て、定職に就いたのは1年だけなのになぜか生活には困った様子はなく(若い頃は奨学金を貰っていたが、その後はベストセラーを出したわけでもないのにどうしていたのだろうか)、84歳まで生き抜くといった感じで、結構恵まれた生活を送ったように思えるのだが、著作からそういう雰囲気を感じとることはできない。シオランのペシミズムとは、生活からではなく、机の上から生み出されたものなのだろうか。
『異端者シオラン』を読み進めていく中で、シオランひいてはアフォリズムそのものに対する違和感を最も分かりやすくしてくれたのが、次のような文章だった。
彼は賛否を同時に提示し、自分の内奥の選択を、そしてそれ以上に、読者がこの文章から導きだすかも知れぬ解釈を未決定のままにしておく。(略)なるほどシオランは真理を提示する。だが、真理に含みをもたせ、曇らせ、個人的な、相対的な真理として提示するのである。
この態度を過不足なく表現するのがアフォリズムである。けだし、アフォリズム以外のどんな形式によって、あの矛盾した運動を──真理を立証しながらも、その真理をつねに破壊し抹殺し、にもかかわらずそれを消しさらず、その存在と効力とを保ちつづける運動を説明することができようか。断定的であると同時に不確かで、普遍的であると同時に主観的なものとして、こうしてアフォリズムは、絶えずみずからの限界を探求し、思考の行為と区別がつかず、その過程と等しく、その固有の運動の報告にほかならない思想、シオランのそれのような思想にとっては、理想の表現形式、唯一可能な表現形式であるように思われる。(太字は原文ママ)
なるほど、俺がアフォリズム嫌いなのは、そこに無責任さを感じるからだ(実際、ボロンはアフォリズムについて「断定しながら、その断定への責任を負おうとはしない思考」と書いている)。ボロンはシオランの著作には矛盾が多いことを指摘していて、人間だから一つや二つ矛盾はあるかもしれないが、シオランの場合、自身の矛盾に対し開き直っているようで、不誠実だと思う。しかも、思考の過程や根拠を示さないのだから、ほとんど何も言っていないのと変わりがない。最初から自分の発言に責任をとるつもりがないから、そういうことができるのだろう。もし、世の中がシオランのような人間ばかりだったら、物事は何も決まらないはずだ。逆に言えば、そういう態度で生きてこれたシオランというのは、非常に特権的な立場にあったわけで、日々何かしらの決定を迫られる会社員としては羨ましい限りである。
アフォリズムを得意とした作家の顔ぶれを見ると、三島にしても芥川にしてもオスカー・ワイルドにしても、社交的な人間が多い。芥川は死後、「芥川君にはズバズバ物を云う勇気がなかったと思う」と評されたぐらいだが(小島政二郎『芥川龍之介』)、そういう人間でも躊躇なく発表できるのがアフォリズムということで、つまり真剣勝負には決してならないという確信が書く側にも読む側にもあって、だからこそ一見きついことを言っていても社交が成り立つのである。
シオランの公開されている写真は気難しい顔をしたものが多く、ボランはそれについて狙ってやったものではないと強調しているが、社会的に有名になる作家というのは芸能人に似て、自分がどう見られているかということについても敏感だから、シオランのしかめ面もポーズだと考えている。ボランが言うように社交的な人間だったのなら、なおさらそういうことができるだろう。シオランについて知れば知るほど「無害な獣」といった印象を持つ。
ある種の読者がシオランを読んで励まされることに関して特に言うことはないが、シオラン的なものを他の芸術と同格にすることはできない、ということは主張したい。
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