印南敦史 『音楽系で行こう!』

 この前ふと印南敦史の名前をグーグル検索したら、ライフハッカーでビジネス書の書評をしていて驚いた。彼のことは、ブラック・ミュージックをメインに扱う音楽ライター、というような認識をしていたからだ*1。『遅読家のための読書術』という本も売れているらしい。

 それで本棚にあった彼の著書『音楽系で行こう!』(2005年)を引っ張り出して久々に読んでみたら、冒頭でこういうことを書いていた。「だが、白状すれば、僕は音楽ライターで一生を終えたなら自分の人生は失敗だったと思わざるを得ないと思っている」。

『音楽系で行こう!』は「音楽ライター」という職業の中身について詳しく解説した本なのだが、主眼は「ライターを職業にするとはどういうことなのか」という点にある。つまり、職業である以上は、それで食っていかなければならないということで、当然楽なものではない。一見華やかに見える「音楽ライター」という仕事が、いかに厳しく不安定なものであるか、印南はこの本の中で説明している。彼はこの本の終りの方で、音楽ライター業について、「『いかにして商売にするか』ということが大切」と書いているが、この姿勢の延長がライフハッカーでの仕事ということになるのだろう。

『音楽系で行こう』には他にも色々面白いことが書かれている。

  

 音楽雑誌といっても、音楽専門誌と総合音楽誌では性格が異なる。

 音楽専門誌はその名のとおり、特定のジャンルに特化した専門誌だ。ライターにも相応の知識と情報量が要求されるので、記事も専門的で詳細。そのジャンルが好きな読者には、とても役立つ媒体だといえる。

 ただしジャンルによってはおのずと読者数が少なくなるため、発行部数は決して多くない。公称1万前後が一般的だろうが、現実的には5000部前後なのではないだろうか。

 つまりそのジャンルに関心のない人には意味がないだけに、へたをするとマニア同士の自己満足大会的な雰囲気も生み出しかねない。

(中略)

 一方、もっと間口を広げた媒体が総合音楽誌だ。あらゆるジャンルの音楽を平均的に取り上げていて、「マニアではないが、そこそこに音楽が好きな読者」を対象にした媒体。ひとつのジャンルに対する専門的な知識よりも、求められるのは総合的なバランス感覚だ。(p.42)

 

 昔から、音楽ライターと映画ライターはギャラが安いことで有名である。ちっとも喜ばしい話ではないのだが、事実なのだから仕方がない。

 では、なぜ安いのか?

 答えは非常にシンプルだ。音楽も映画も、限られたユーザーを対象とした娯楽物でしかないからである。(p.52)

  

 ところで、アーティストがインタヴューを受けるのは、ほとんどの場合アルバム発売時期と来日時に限定される。つまりプロモーションの一環なので、ありきたりの質問をすればありきたりの答えしか返ってこなくて当然なのだ。

 だから新作について聞く場合でも、ヒネリを加えると効果的だ。

 たとえば「○○を聴いて、君は△△なところがあるんじゃないかと僕は思った。それは的外れかな?」とか。 

 うまくいくと向こうから立ち上がり、「そうなんだ。俺がいいたかったのはそれなんだ!」と感激しながら握手を求めてきたりもする。

 もちろんここまで持っていくためには作品を聴き込み、目の前にいる本人をつぶさに観察する必要がある。そこから「こうなんじゃないか?」みたいな仮説を導き出し、ぶつけるのである。(pp.82-83)

  

 営業という仕事は、どこかナンパに似ている。「100人に声かけて、2、3人をゲットできればめっけもの」みたいな感じが。つまりはそれほど確実性が低いということだ。

 けれども大切なのは、二の足を踏んでいる時間にも他の人は営業しているということ。自分が止まっているその瞬間に、仕事がまとまっている可能性もあるということ。そう思うと、動かずにはいられないでしょ。

(中略)

 コツがあるとすれば、誠実にアピールすることに尽きるのではないだろうか。口ベタでも問題ない。営業にきた人間を口のうまさで評価するような編集者はいないし、いたならそんな会社で仕事しない方がいい。(p.93)

 

 おそらくディレクターは、レコード会社のなかでいちばん華やかに見える仕事だろう。扱っているものが洋楽か邦楽かによって若干の差はあるとはいえ、アーティストとの距離感も近く、ときには個人的なつきあいをしたりもできる。自分のアイディアを担当アーティストの作品に反映させることも不可能ではないし、最前線にいられる。

(中略)

 だけど、現実的に、ディレクターの仕事というのはそれほどきらびやかなものでない。打ち合わせの調整からスケジュールの設定、ときにはアーティストのメンタルケアや弁当の買い出しまで、早い話がなんでも屋さんなのである。アーティストに「売れる」作品をつくらせることが仕事の核なのだから、当然といえば当然の話。(pp.118-119)

 

 「音楽なしでも生きてはいける」

  そんなの当たり前っすよね。

 人間が生きていくのに必要な養分が、音楽に含まれているというならまだしも(含まれていたとしたら、なんかちょっと感覚的に気持ち悪い)。

 が、もしかしたらこのフレーズを常に頭のどこかに置いておかないと、音楽のありがたみなんてすぐ忘れてしまうものなのではないかと、ふと、そんなことを感じたのである。(p.214)

 

 企画したコンピレーションアルバムが売れなかった話、編集者から脅迫された話、など怖い話も色々ある。「ライターとして生活する」ということを考えるうえで、重要な一冊だと思う。 

音楽系で行こう !

音楽系で行こう !

 

 

*1:『音楽系で行こう!』の中に、「音楽ライターとして『ヒップホップ/R&Bの人』みたいな限定イメージに悩まされてきた」と書いてあった。すいません

田村章 中森明夫 山崎浩一 『だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド』

 ライター業に興味があったので読んでみた。何年か前に小谷野敦『評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に』(平凡社新書、2004)を読み、物書き稼業の過酷さについてはある程度知っていたが、1995年に出版された本書を読んで、その認識はますます強化された。「それでも」とタイトルについているのはそういうことだ。

 本書は3人の編著という形になっているが、中心になってまとめているのは、当時ドラマのノベライズや芸能人のゴーストライターを数多く手掛けていた田村章。構成としては、田村×中森対談が第1章、「編集長によるライター募集要項」が第2章、田村×山崎対談が第3章、「ライターのためのブックガイド」が第4章という風になっている。

 当然ながら3人がこれまで請け負ってきた仕事からライター業について語っているので、中森や田村と30歳近く離れている俺が、彼らの出してくる固有名詞についていくのは少し大変だったが、当時のベストセラーやゴシップ的な情報は、戦後の出版史を知る上ですごく勉強になった。注が充実しているので、丁寧に読めば今の読者でも、彼らが積極的に仕事をし始めた80年代の状況を把握できると思う。また、そこで言われているライターの心得や出版業界を巡る状況については、今でも十分通用することばかりだ。第1章の田村×中森対談からいくつか面白かったところを拾ってみよう。

 

中森───(前略)やっぱり作家とライターでは扱いが違う。物書きで「先生」と呼ばれるには、肩書が作家とつかないと、みたいなくだらないレベルからね。だからある意味では、(中略)”書く人”として見れば一緒だけれども、雑誌の現場で書いている人たちの感覚から言うと、ライターというのは非作家的な書き手だといったほうがいいかもしれない。それくらい、作家とライターに差はあるんですよ、実感的に。

田村───(前略)第一、作家には賞があるでしょう。でも、ライターにはない。デビューの仕方にしても、ライターには新人賞なんてないものね。(pp.16-17)

 

田村───(前略)ライターにとってのハードルは編集者であり、読者の直截的な、それこそ面白いか面白くないかの部分を含めての反応ですよね。「つまらなくても伝統芸を守るのだから」というようなものはない。階級主義がないぶん、常に”さらされている”という気がする。(p.17)

 

田村───大宅壮一ノンフィクション賞にしても、ある意味では文学賞の憧れから生まれているんじゃないかしら。つまり、それまではフリーライター、あるいはルポライターと呼ばれていた人が、大宅賞を取るとノンフィクション”作家”になる。

中森───ノンフィクション作家がなぜノンフィクション作家になれたかと言うと、大宅賞ができたからです。あれは完全に「文藝春秋」に発表して、文藝春秋が賞を仕切って……ということでしょう。ノンフィクション作家って、あえて挑発的な皮肉として言えば、作家の人たちのウエスタンリーグじゃないけどさ、何かもう一つの*1作家のシステムなんだ。(pp.17-18)

 

田村───(前略)乱暴な言い方をすれば、作家は「作品」を書き、ライターは「商品」を書いているんじゃないかと思いますね。(p.21)

 この田村の発言が本書における一つの結論だ。

 

田村───(前略)雑誌の世界は編集者の入れ代わりって激しい。人事異動も派手だし(笑)、世代的にも三〇代の半ばからはデスクになったり副編集長をやったりと、現場の最前線でやってる人は、やっぱり二〇代からせいぜい三〇代前半までですよね。ということは、編集者が伴走者にはならないわけです。途中から編集者の顔触れも変わり、それに応じてライターも世代交代していく。作家になる人もいるだろうし、コラムニストになったり、評論家になったり。もちろん、その過程で切り捨てられて、最前線から脱落してしまうライターも多いはずです。

 現実に、いま僕に仕事を回してくれる編集者の大半は同世代かそれ以下なんですが、たぶん一〇年たてば彼らは編集長とかになってると思います。で、雑誌の現場には、いま高校生とか中学生くらいの子がやってくる。僕は四〇代前半になって……僕の希望としては一〇年後もライターでいたいと思ってはいますが、はたしていまと同じようにやっていけるだろうか……と。「こんなオッサン、いらねえよ」なんて若い奴に言われちゃったりして。(p.65)

田村は本書を出版してから5年後、本名の「重松清」で直木賞を受賞することになる。 

 

中森───(前略)つまり三〇歳から四〇歳のバーってあると思うんだ。それは僕らによくも悪くも影響を与えた全共闘世代を見ていると痛感するね。

 僕らが二〇歳の頃、当時三〇歳だった全共闘世代の、たとえば糸井重里であり、橋本治であり、亀和田武でもいいし、彼らは当時すごく新しく見えましたよ。(中略)

 ところがこの一〇年を考えると、糸井重里はもうコピーライターじゃなくて、何か埋蔵金を掘っているおじさんという感覚でしょ? アリス出版の亀和田武は、ワイドショーの司会に成り下がって「雅子様」とか言ってるし。(中略)

 この落ちつき方というのは、三〇歳と四〇歳の間に何かあるとしか思えない。まず、一つは”生活の問題”があると思うんだ。三〇のときは、いつまでも独身でやっていけるさなんて言えるけど、四〇になるとそうも言っていられなくなる。(中略)社会的な立場で言えば、どこにも所属していないことが苦しくなってくる。

 何にも属さないことに耐えるには、それこそ橋本治のような奇人でもなければというね。(pp.69-70)

 この部分は、吉田豪の「サブカルというか文系な有名人はだいたい四〇前後で一度、精神的に壊れがち」*2という発言に通ずるものがある。中森と田村は本書の中で、ライターの「上がり方」について様々な角度から検証している。

 

 第2章では、本書の編集者が当時の代表的なカルチャー雑誌の編集長にインタビューし、雑誌がライターに求めているものを聞き出している。取り上げられている中で、「噂の真相」、「ギャンぶる大帝」、「宝島」、「投稿写真」等はなくなってしまったが……

 第3章の田村×山崎対談では、田村が山崎のこれまでライターとして関わってきた仕事について聞き出している。「宝島」と「ポパイ」の違いや、山崎がRCサクセション『愛しあってるかい』に携わった時のエピソードは貴重。

 第4章は、ライター志望者に向けたブックガイド。山崎、中森、田村が話し合い、テーマ別に書籍を選び出している。文章をまとめているのは田村。本田勝一『日本語の作文技術』や植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』、『狐の書評』などが選ばれている。ちなみに、開高健の『ずばり東京』は第4章だけでなく、第1章でも激賞されている。

 単純な情報自体は幾分古くなっているが(ただし史料としての価値は十分ある)、上の引用を見てもらっても分かる通り、個々の発言は今でも面白い。絶版にしておくには惜しい本だろう。

 

だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド
 

  

評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)

評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)

 

  

 

ずばり東京―開高健ルポルタージュ選集 (光文社文庫)

ずばり東京―開高健ルポルタージュ選集 (光文社文庫)

 

  

*1:「もう一つの」に傍点

*2:サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間文庫カレッジ、2014)10頁

洋服=布と考えているあなたに──ブックオフ・スーパーバザー讃歌

「ただの布だぜ!?」。某情報番組にて、1万円越えの高級Tシャツを見た、Kinki Kids堂本光一は、こう叫んだ。
 そう、洋服なんてただの布でしかない。ボクと堂本の年収は100倍ぐらい差があるが、まったくの同意見である。ウィー・アー・ミニマリスト
 では、洋服=布派の人間はどこで服を買うべきか。
ユニクロ? NO。
しまむら? NO。
正解はブックオフ・スーパーバザーだ。

 

 この前ボクは、洋服=布派の友人をともなって、ブックオフ・スーパーバザー・ビビット南船橋店を訪れた。
ビビット南船橋は、隣接するララポートTOKYO BAYの成功に便乗しようと、2004年に建設された大型商業施設だが、まったく流行らないまま現在に至っている。
 沈没しかけた船からネズミが逃げ出すように、入居していたテナントが次々と撤退したことで、中は半分廃墟と化した。恐らく、今の日本で最も「わびさび」を感じるスポットだろう。
 ブックオフ・スーパーバザーは、4年前にビビット南船橋に入居すると、今では最も繁栄したテナントとなっている。多分、創業者の描いていた未来予想図とは異なる方向に進んでいるが、人生とはそんなものだ。
 店に入ると我々は、まず時計を物色した。ケースの上には、カタログが置かれているが、これもブックオフの商品である。ブックオフ・スーパーバザーでは店員以外、全て商品だ。
 もし、あなたが、全裸でブックオフ・スーパーバザーに入店することになっても、心配はいらない。そこには、靴から上着、帽子、鞄にいたるまで全て揃っている。1万円もあれば上下一式買えるだろう。
「彼女へのプレゼントが欲しいな」と友人が言った。我々は、婦人服売り場に移動すると、速やかに比較検討を開始した。
「これ、どうだろう」
 私が選び出したのは、純白のワンピース。値札を見ると「5000円」。よく見ると裾が床にふれている。
「高いよ。布だろ」
「ああ、布だな」
 結局、我々は500円のTシャツを2枚買った。ブックオフに感謝を込めて。

 

ブックオフの真実――坂本孝ブックオフ社長、語る

ブックオフの真実――坂本孝ブックオフ社長、語る

 

 

ローリング・ストーンズとヘルズ・エンジェルス

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 1969年にオルタモント・スピードウェイで開催されたローリング・ストーンズのフリーコンサートでの様子。ステージと客席が区別がつかないほど近い。このライブは警備に関わっていたヘルズ・エンジェルスが大暴れし、その結果客に死傷者が出たことで、俗に「オルタモントの悲劇」と呼ばれている。なぜ、暴走族であるヘルズ・エンジェルスが警備で雇われたか。A・E・ホッチナーの『涙が流れるままに──ローリング・ストーンズと60年代の死』によれば「彼ら(注:ヘルズ・エンジェルス)に勝手に来られて暴れまわられるより公式に招待しておいたほうがトラブルがなかったから」ということで、以前から他のロックのコンサートでも同様の対策がとられていた。しかし、オルタモントではその目論見が外れ、大変な事態を引き起こしてしまったわけだ。会場がいかに混乱と暴力に満ちた状況と化していたかは、『涙が流れるままに』に詳しく書いてある。ちなみに、このフリーコンサートが開かれたのは、「全米ツアーは興業的には大成功したが、ストーンズはプロモーターを食いものにし、法外な値段にはねあがった入場料で全米の観客を搾取したと非難され」たことに端を発している。ホッチナーはその著書の中で、ウッドストックの後で起きたこの悲劇を、60年年代という時代の終りと結び付けている。

 

涙が流れるままに―ローリング・ストーンズと60年代の死

涙が流れるままに―ローリング・ストーンズと60年代の死

 

 

A・E・ホッチナー 『パパ・ヘミングウェイ』

 本書は、作家のA・E・ホッチナーが、『コスモポリタン』の編集スタッフとしてヘミングウェイに会いに行った1948年から彼が自殺する1961年までの交流を描いたメモワールで、ヘミングウェイの晩年の生活を知るうえで大変貴重な資料だ。

 1948年の春、ホッチナーは『コスモポリタン』に「文学の将来」というエッセイを書いてもらうため、ハバナにいるヘミングウェイに会いに行く。そこにいたヘミングウェイはまさしく世間の人がイメージしている「ヘミングウェイ」だった。どっしりとした体格で、食や酒にこだわりを持ち、闘鶏への情熱を語り、船で海に出るヘミングウェイ。ホッチナーは彼に誘われ、一緒に海釣りに行き、そこで仲間として認めてもらう。以後、彼は友人として、ヘミングウェイ夫妻のヨーロッパ旅行に同行したり*1キューバケチャムにある彼の自宅をたびたび訪問したりするようになる。そうしてホッチナーは、ヘミングウェイという人間について深く知るようになっていく。気に入った人間に対しては非常に面倒見が良いが、一旦気に食わなくなると即座に追い払うヘミングウェイ。昔話をする際、ハッタリをかまさずにはいられないヘミングウェイ*2イーヴリン・ウォー*3ガートルード・スタイン*4、ジェームズ・ジョーンズ*5、ウィリアム・フォークナー、ノーマン・メイラーといった作家連中に辛辣な評価を下すヘミングウェイ。また、税金や原稿料を気に掛ける実務家的な面もあった。

 ホッチナーはヘミングウェイとの会話をノートやテープレコーダーに記録していたので、二人のやりとりは本書の中で生き生きと再現されている。二人の会話で最も感動的なのは、当時(1949年)編集者で小説家志望だったホッチナーが、自分もかつてのヘミングウェイのようにパリで執筆生活を送るべきかと質問し、それに対してヘミングウェイが返答するところだろう。ヘミングウェイはまず作家を目指すということについて、「自分に何があるか、ひき出してみるまでは誰にもわからない。何もなかったとか、ほんのわずかしかなかったということになったら、そのショックは一人の人間を殺すに足りるだろう」と言い、作家修行の厳しさについて語ると同時に、「友だちに、ルーレットをした方がいいとか、するなとか、いえないのと同様に、こいつも助言はできないんだ」とも言って、アドバイスすることの難しさについて説明した後、パリについては次のように話す。

 

「これは案内として考えてくれ。これだけはほんとうにおれの知っていることだからね。もしきみが幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、あとの人生をどこで過ごそうと、パリはきみについてまわる。パリは移動祝祭日だからね」(中田耕治訳)

 

 そう、これは『移動祝祭日』のエピグラフにもなった言葉だ。エピグラフで「ある友人」とされているのはホッチナーのことである。ヘミングウェイ没後、メアリー・ヘミングウェイは『移動祝祭日』を構成することになる原稿の編集をしていたが、タイトルを決めるにあたってメアリーはホッチナーに相談した。そして、ホッチナーが上記の話を伝えたところから、『移動祝祭日』というタイトルが決まったのだった。この言葉はホッチナーも仕事で関わっていたヘミングウェイの小説『河を渡って木立の中へ』(1950年)にも使われていて、当時ヘミングウェイのお気に入りだったようだ(ちなみに、『河を渡って木立の中へ』は彼の小説の中でも特に酷評されたことで有名で、『パパ・ヘミングウェイの中でもそれについて触れられている)。

 ヘミングウェイの人生にとって大きな転機となったのは、1954年の二度に渡る飛行機事故とノーベル賞受賞だろうか。負傷した身体は完治せず、周囲の熱狂的な騒ぎにも巻き込まれ、まったく落ち着くことができない。また、健康のため酒をほとんど禁じられ、目も悪くなったことで、ライフスタイルの変更も余儀なくされる。そして、極めつけは、ハバナにあった家〈フィンカ〉から退去せざるをえなくなったことだ。カストロらによる革命によって反米の空気がキューバに充満し、「ほかのアメリカ人がたたきだされて国が中傷されているのに、ここに残るなんてできないよ」ということで──キューバ人自体はヘミングウェイに好意的だったが──彼は家を捨てる選択をした。この家は現在博物館として一般に公開されている。

 ヘミングウェイが晩年、うつ病や妄想に苦しめられたことは知られているが、本書はその様子を細大漏らさず描いている。1954年以降不安定だった体調は、自殺に至る一年ほど前からはっきりとおかしくなった。『ライフ』のために書いていた闘牛についてのノンフィクション(『危険な夏』として1985年に出版)や『移動祝祭日』の原稿に苦戦したり、FBIに付け狙われていると考えたりと、執筆能力の衰退と妄想(後には希死念慮も)が著しくなる。60年から61年までのホッチナーの記述を読むと、死後『移動祝祭日』がまとまった形で出たのは奇跡のように思えてくる。それくらいひどい鬱と妄想に苦しめられていたのだ。60年の11月には、とうとうロチェスターにある内科と精神科を備えたメイヨ・クリニックに一旦入院するが(人の目を避けるため、田舎のクリニックが選ばれた)病気は完治せず、退院から3ケ月後、再入院のため病院に向かう途中皆の前で何度も自殺を遂行しそうになる。この辺りの描写はかなり衝撃的だ。そして、再入院先のメイヨ・クリニックから半ば放り出されるように退院させられると、その数日後にヘミングウェイは猟銃で自殺してしまう。死体を発見したメアリーはすぐさまレナード・ライアンズに頼み、これを事故死であると発表する記者会見をセッティングした。

 下巻には原著がペーパーバックにになった時に追加された「追記」と題された章があり、1966年に出版されたハードカバー版ではあえて触れなかった出来事や、66年以後に起きたトラブルなどについて詳述している。そこでは、ヘミングウェイ死後、妻のメアリーが彼の神格化を目論んだことや(『パパ・ヘミングウェイ』を書いたことでホッチナーはメアリーから名誉棄損で訴えられた)、ヘミングウェイが自殺する数年前から彼らの夫婦仲はかなり悪化しており、激しい喧嘩が絶えなかったこと、評論家のフィリップ・ヤングがヘミングウェイについて書いたその著書の中で、マルカム・カウリーの文章を剽窃をしたこと、などについて書かれている。特にメアリーについての次のような文章は興味深かった。

 

 アーネストの死後、メアリは憎悪を隠さないが、私としては長年親しくしてきた彼女を気の毒に思っている。アーネストが自殺した当時、彼が必死に完成しようとしていた作品は、実質的には最初の夫人、ハドリイにたいする愛の記念だったことを思い出してもらいたい。つまりは、遥か昔の妻への愛の形見をたしかめながら、現在の妻の前で自殺した──これほど痛烈な拒絶があろうか。見かたによっては、一種の恥辱ではなかったか。アーネスト亡きあと、彼の代わりになることを世間に認めさせようとしたのも、残りの生涯をメアリ・ヘミングウェイではなく、アーネスト・ヘミングウェイ夫人として過ごしていることも、その恥辱を乗りこえたい一心からではなかったか。(中略)

 アーネストの死が近づいていた時期、夫婦間のかなり頻繁ないさかいが、ますます深刻化していたことも、あらためてメアリの罪悪感をなしていたと思う。(中略)あるとき、いつにないはげしいやりとりのあと、アーネストが私にコボしたのだった。「あいつと別れられたら、どんなにサバサバするか。しかし、おれも年を食いすぎて、いまさら四度目の離婚となると金が続かない。だいいちメアリのやつ、おれにしがみついてくるだろう」(中田耕治訳)

 

 メアリーが『移動祝祭日』を編集した際、ヘミングウェイの文章をいくつか削除したことは、新潮文庫版『移動祝祭日』の高見浩の解説で触れられている。メアリーが、『移動祝祭日』の原稿の中から、ヘミングウェイの二度目の結婚相手、ポーリーンに関する文章をいくつか削ったのも、ヘミングウェイ神格化の一環に思える。

 とにかく、『パパ・ヘミングウェイ』が、ヘミングウェイを知るうえで非常に大事なメモワールであることは間違いないだろう。ヘミングウェイはホッチナーに小説のモデルとなった出来事についても語っており、その部分も面白かった。また、ヘミングウェイの友人、ゲイリー・クーパーが死の間際に、ヘミングウェイ宛てたメッセージを口頭でホッチナーに託すところではちょっと泣きそうになった。

 本書を読んでヘミングウェイ神話を解体しよう。

 

 ちなみに、ホッチナーが版元であるランダム・ハウスに、この本の企画を出したところ、当初ベネット・サーフは二の足を踏んだのだが、ヘミングウェイ自身が小説やエッセイの中で、ガートルド・スタイン、フィッツジェラルド、シンクレア・ルイスを批判的に描いているということを持ち出して、サーフを納得させたのだった。

 

パパ・ヘミングウェイ〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

パパ・ヘミングウェイ〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

 

  

パパ・ヘミングウェイ〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

パパ・ヘミングウェイ〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

 

  

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 

  

*1:ヘミングウェイがしばしば国外旅行をするのも、一つには外国で所得した収入に対する課税がゼロに近いことと、旅行が必要経費として算定されるためであった」と訳者の中田は書いている。下巻p.190

*2:生前、ヘミングウェイマタ・ハリと性交渉をもったと『アーネスト・ヘミングウェイ、自作を読む』というレコードの中で語ったが、これは今では虚偽だとわかっている。上巻p.150

*3:「つい最近雑誌に出たイヴリン・ウォーのくずみたいな短編よりはずっとましだ」上巻p.48

*4:『アリス・B・トクラス自伝』は嘘が多く、それが出版された時、「ピカソとおれはがっくりきた」とヘミングウェイはホッチナーに語っている。上巻pp.97-98

*5:「おれは、ジョーンズ"大佐"はそう長くもたないと思う」上巻P.131

ノーマン・メイラー 『黒ミサ』

 ノーマン・メイラーの『黒ミサ』(原題:Trial of the Warlock)は、これまで日本語に翻訳されてきた彼の著作の中でも、最も知名度が低い作品だと思う。メイラーの翻訳は、だいたい新潮社か早川書房から出ているが、これは集英社から出版された。もともと『黒ミサ』は1976年の『プレイボーイ』クリスマス特集号に載せられたもので、集英社が日本版『プレイボーイ』を発行していた関係から、翻訳権を持っていたのだろう。

 さて、その中身だが、これはジル・ド・レという悪魔主義者の貴族を扱ったたユイスマンスの小説『彼方』を、メイラーがシナリオ風に翻案したものなのだ。ジル・ド・レというのは、ジャンヌ・ダルクと共に武将としてイングランドと闘い、後に100人以上の少年を犯した末虐殺したということで有名になった人物だが、日本においても「青ひげ」や澁澤龍彦経由で、サブカルチャーの世界ではそれなりに知られている。最近だと、虚淵玄の作品で知った人もいるだろう。メイラーというのは、殺人犯やボクサーのような、暴力的な異端者に惹かれ続けてきた男なので、彼がジル・ド・レに興味を持ったのも特段おかしなことではない。

 雑誌に掲載された物だから、枚数はそんなに多くなく、邦訳は160頁程度。翻案なので、ストーリーはユイスマンスの物に多くを負っている。一応シナリオという態だから、時折カメラの動きを指示した箇所(「やがてゴダールの映画『週末』の場面を見ているようになる」と指示している所はメイラーの映画観を知るうえで興味深い)があったり、映像効果を意識して過去と現在のシーンを交互に並べたりしているが、まあ、レーゼシナリオと言っていいだろう。だから、現在に至るまで、これをもとにしたドラマ・映画は作られていない。

 ユイスマンスの小説は、19世紀末のパリを舞台に、ジル・ド・レの伝記を書いている小説家デュルタルが、シャントルーヴ夫人の手引きで黒ミサに参加するというものだが、メイラー版では「あの男(注:ジル・ド・レ)こそ、まさに近代世界に科学をもたらした怪物なのだ」という台詞をデュルタルが呟いた後、現代のオルリー空港にワープするという原作にない場面が付け加わっている。

 二十世紀後半の世界では、デュルタルの十九世紀末的服装も違和感がない。彼はいつのまにか長髪になり、顔には化粧すら施している。「かれ(注:デュルタル)の厳しい十九世紀的表情」が「いまではすでに道化じみた現代の両性具有、ふたなり*1の面持に変ってしまっている」。そして、空港にいる彼の脳裡には、「夜のティフォージュの城で燃える大きな坩堝の炎」の中からロケットが一台舞い上がっていく様子が映し出され、「月が傷を負った子供のように泣き叫ぶ」というイメージが浮かんだところでこのシナリオは終わる。悪魔と科学を結びつけ、テクノロジーに肉体性を奪われることを批判してきたメイラーの主張が、ここには表れている。「悪魔主義というのはあの時代から今日まで(注:中世から十九世紀末まで)、とぎれることなくつながり流れているのじゃないかと思うんだ」と作中でデュルタルの友人デ・ゼルミは言うが、悪魔は二十世紀になっても形を変えて生き延びているというのが、『黒ミサ』のテーマなのだ。といっても、悪魔的なものを描く時のメイラーは、非常に生き生きとしているが。また、「最後の夜」、『アメリカの夢』、『月にともる火』などで象徴的に描かれてきたロケットや月が再登場していることにも注目すべきだろう。

 

黒ミサ (1977年)

黒ミサ (1977年)

 

  

彼方 (創元推理文庫)

彼方 (創元推理文庫)

 

 

*1:ふたなり」に傍点

橋本福夫 『橋本福夫著作集Ⅰ』

 橋本福夫(1906-1987)と言えば、ジェームズ・ボールドウィンやリチャード・ライトといったアメリカ黒人文学の翻訳者としてのイメージが強かったのだが、彼の死後編まれた著作集の第一巻が「創作・エッセイ・日記」をまとめた物であることを知り、ちょっと読んでみた。

 創作はほとんどが短編私小説で、『文学空間』(創樹社)や『高原』(鳳文書院)といった小さな雑誌に載せたものだ(ちなみに、『高原』の編集には、橋本以外に、堀辰雄田部重治、片山敏彦、山室静といった当時軽井沢周辺に住んでいた文化人が携わっていた)。それで私小説と言っても、田山花袋のそれではなく、志賀直哉の心境小説にやや近い印象を受ける(日記でも志賀の小説を褒めている)。時代はどれも第二次大戦前後、主人公の苗字は基本的に「葛木」で統一されている。内容はエッセイに書かれていることと被っていることが多く、素材をあまり変形させないで書いたようだが、起伏の変化に乏しく、枚数も少ないことから、やや消化不良を感じさせないこともない。それでも軽井沢・追分における敗戦直後のやけくそな高揚感と不穏な空気を描いた「通り過ぎて行った男の顔」や、36歳の時、神戸で英語塾を開いた時の体験をもとにした「葉のそよぎ」は十分面白く読めた。

 エッセイでは、橋本が子供の頃、地主・村長の家の養子となり、そこで部落差別に直面した時のことなどが書かれている。橋本とはその養家の苗字だ。後に成長した橋本は左翼思想や有島武郎に影響を受けることになるが、その萌芽はここにある。黒人文学への共感も、そうした家庭環境から来るものだったのだろう。橋本は有島のように土地を小作人に解放することを考えていたようで、そうしたことから元々折り合いの悪かった養母と喧嘩になり、最終的に橋本は養家と絶縁する。橋本は同志社を卒業して以来、パン屋を営んでみたり、英語塾を開いて見たり、翻訳の仕事に携わってみたりと、定職につかない不安定な生活をしていたが、1942年に長野県の追分に妻(同志社時代に知り合い、1934年に結婚)とともに移住する。堀辰雄とはそこで知り合った。本書では少しだが、堀についても触れられている。

 日記には、その追分での暮らしが詳しく描かれている。また、軍人に対する嫌悪感についても書かれているが、日本軍が1941年にイギリス領となっていた香港を攻め落とした時は、中勘助の「大東亜戦争」という戦争賛美の詩を引用し、わりと素直に祝福している。戦後は「ナルシス」という文壇バーに通うことが多かったようで、よく名前が出てくる。埴谷雄高小島信夫との交流についての記述もある。橋本はかつてトロツキー伝の翻訳を手掛けたことがあるのだが、山西英一から同じトロツキストだと思われたことについては、「閉口」していると日記には書いている。

 本書の最後の方に載せられている「アメリカ文学とのかかわり」と題されたインタビューでは、これまで橋本が翻訳してきた本を中心に、文字通りアメリカ文学とどのように関わってきたかということを話している。サリンジャーThe Catcher in the Ryeを『危険な年齢』(ダヴィッド社、1952年)というタイトルで橋本が翻訳したことは一部で知られているが、当時「大出版社」からはことどとく出版を断られ、大久保康雄の紹介で何とかダヴィッド社に決まったらしい。ラルフ・エリソンの『見えない人間』の翻訳を持ちこんだ時も同じように拒絶されたとか。サリンジャーやエリソンがアメリカで有名になった後、「新潮社などには、僕のすすめた作品はいずれも傑作だっただろうと苦言を呈したところ」、「今後は先生の推薦された作品は必ず出版します」という約束をしてもらったという。『白人へのブルース』や『ブッシュ・オブ・ゴースツ』は、そうした経緯で出版された。

信濃追分でのこと」というインタビューでは、「近代文学」や「高原」との関係について語っている。「高原」の編集に携わっていた山室静・片山敏彦の二人が、堀辰雄の推薦した中村真一郎福永武彦と対立していたというのは興味深かった。加藤周一も堀経由で「高原」に関わっていたらしい。

 巻末には年譜もあり、橋本の人生が簡単に把握できるようになっている。

 

創作・エッセイ・日記 (橋本福夫著作集)

創作・エッセイ・日記 (橋本福夫著作集)