田村章 中森明夫 山崎浩一 『だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド』

 ライター業に興味があったので読んでみた。何年か前に小谷野敦『評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に』(平凡社新書、2004)を読み、物書き稼業の過酷さについてはある程度知っていたが、1995年に出版された本書を読んで、その認識はますます強化された。「それでも」とタイトルについているのはそういうことだ。

 本書は3人の編著という形になっているが、中心になってまとめているのは、当時ドラマのノベライズや芸能人のゴーストライターを数多く手掛けていた田村章。構成としては、田村×中森対談が第1章、「編集長によるライター募集要項」が第2章、田村×山崎対談が第3章、「ライターのためのブックガイド」が第4章という風になっている。

 当然ながら3人がこれまで請け負ってきた仕事からライター業について語っているので、中森や田村と30歳近く離れている俺が、彼らの出してくる固有名詞についていくのは少し大変だったが、当時のベストセラーやゴシップ的な情報は、戦後の出版史を知る上ですごく勉強になった。注が充実しているので、丁寧に読めば今の読者でも、彼らが積極的に仕事をし始めた80年代の状況を把握できると思う。また、そこで言われているライターの心得や出版業界を巡る状況については、今でも十分通用することばかりだ。第1章の田村×中森対談からいくつか面白かったところを拾ってみよう。

 

中森───(前略)やっぱり作家とライターでは扱いが違う。物書きで「先生」と呼ばれるには、肩書が作家とつかないと、みたいなくだらないレベルからね。だからある意味では、(中略)”書く人”として見れば一緒だけれども、雑誌の現場で書いている人たちの感覚から言うと、ライターというのは非作家的な書き手だといったほうがいいかもしれない。それくらい、作家とライターに差はあるんですよ、実感的に。

田村───(前略)第一、作家には賞があるでしょう。でも、ライターにはない。デビューの仕方にしても、ライターには新人賞なんてないものね。(pp.16-17)

 

田村───(前略)ライターにとってのハードルは編集者であり、読者の直截的な、それこそ面白いか面白くないかの部分を含めての反応ですよね。「つまらなくても伝統芸を守るのだから」というようなものはない。階級主義がないぶん、常に”さらされている”という気がする。(p.17)

 

田村───大宅壮一ノンフィクション賞にしても、ある意味では文学賞の憧れから生まれているんじゃないかしら。つまり、それまではフリーライター、あるいはルポライターと呼ばれていた人が、大宅賞を取るとノンフィクション”作家”になる。

中森───ノンフィクション作家がなぜノンフィクション作家になれたかと言うと、大宅賞ができたからです。あれは完全に「文藝春秋」に発表して、文藝春秋が賞を仕切って……ということでしょう。ノンフィクション作家って、あえて挑発的な皮肉として言えば、作家の人たちのウエスタンリーグじゃないけどさ、何かもう一つの*1作家のシステムなんだ。(pp.17-18)

 

田村───(前略)乱暴な言い方をすれば、作家は「作品」を書き、ライターは「商品」を書いているんじゃないかと思いますね。(p.21)

 この田村の発言が本書における一つの結論だ。

 

田村───(前略)雑誌の世界は編集者の入れ代わりって激しい。人事異動も派手だし(笑)、世代的にも三〇代の半ばからはデスクになったり副編集長をやったりと、現場の最前線でやってる人は、やっぱり二〇代からせいぜい三〇代前半までですよね。ということは、編集者が伴走者にはならないわけです。途中から編集者の顔触れも変わり、それに応じてライターも世代交代していく。作家になる人もいるだろうし、コラムニストになったり、評論家になったり。もちろん、その過程で切り捨てられて、最前線から脱落してしまうライターも多いはずです。

 現実に、いま僕に仕事を回してくれる編集者の大半は同世代かそれ以下なんですが、たぶん一〇年たてば彼らは編集長とかになってると思います。で、雑誌の現場には、いま高校生とか中学生くらいの子がやってくる。僕は四〇代前半になって……僕の希望としては一〇年後もライターでいたいと思ってはいますが、はたしていまと同じようにやっていけるだろうか……と。「こんなオッサン、いらねえよ」なんて若い奴に言われちゃったりして。(p.65)

田村は本書を出版してから5年後、本名の「重松清」で直木賞を受賞することになる。 

 

中森───(前略)つまり三〇歳から四〇歳のバーってあると思うんだ。それは僕らによくも悪くも影響を与えた全共闘世代を見ていると痛感するね。

 僕らが二〇歳の頃、当時三〇歳だった全共闘世代の、たとえば糸井重里であり、橋本治であり、亀和田武でもいいし、彼らは当時すごく新しく見えましたよ。(中略)

 ところがこの一〇年を考えると、糸井重里はもうコピーライターじゃなくて、何か埋蔵金を掘っているおじさんという感覚でしょ? アリス出版の亀和田武は、ワイドショーの司会に成り下がって「雅子様」とか言ってるし。(中略)

 この落ちつき方というのは、三〇歳と四〇歳の間に何かあるとしか思えない。まず、一つは”生活の問題”があると思うんだ。三〇のときは、いつまでも独身でやっていけるさなんて言えるけど、四〇になるとそうも言っていられなくなる。(中略)社会的な立場で言えば、どこにも所属していないことが苦しくなってくる。

 何にも属さないことに耐えるには、それこそ橋本治のような奇人でもなければというね。(pp.69-70)

 この部分は、吉田豪の「サブカルというか文系な有名人はだいたい四〇前後で一度、精神的に壊れがち」*2という発言に通ずるものがある。中森と田村は本書の中で、ライターの「上がり方」について様々な角度から検証している。

 

 第2章では、本書の編集者が当時の代表的なカルチャー雑誌の編集長にインタビューし、雑誌がライターに求めているものを聞き出している。取り上げられている中で、「噂の真相」、「ギャンぶる大帝」、「宝島」、「投稿写真」等はなくなってしまったが……

 第3章の田村×山崎対談では、田村が山崎のこれまでライターとして関わってきた仕事について聞き出している。「宝島」と「ポパイ」の違いや、山崎がRCサクセション『愛しあってるかい』に携わった時のエピソードは貴重。

 第4章は、ライター志望者に向けたブックガイド。山崎、中森、田村が話し合い、テーマ別に書籍を選び出している。文章をまとめているのは田村。本田勝一『日本語の作文技術』や植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』、『狐の書評』などが選ばれている。ちなみに、開高健の『ずばり東京』は第4章だけでなく、第1章でも激賞されている。

 単純な情報自体は幾分古くなっているが(ただし史料としての価値は十分ある)、上の引用を見てもらっても分かる通り、個々の発言は今でも面白い。絶版にしておくには惜しい本だろう。

 

だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド
 

  

評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)

評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)

 

  

 

ずばり東京―開高健ルポルタージュ選集 (光文社文庫)

ずばり東京―開高健ルポルタージュ選集 (光文社文庫)

 

  

*1:「もう一つの」に傍点

*2:サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間文庫カレッジ、2014)10頁