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橋本福夫 『橋本福夫著作集Ⅰ』

 橋本福夫(1906-1987)と言えば、ジェームズ・ボールドウィンやリチャード・ライトといったアメリカ黒人文学の翻訳者としてのイメージが強かったのだが、彼の死後編まれた著作集の第一巻が「創作・エッセイ・日記」をまとめた物であることを知り、ちょっと読んでみた。

 創作はほとんどが短編私小説で、『文学空間』(創樹社)や『高原』(鳳文書院)といった小さな雑誌に載せたものだ(ちなみに、『高原』の編集には、橋本以外に、堀辰雄田部重治、片山敏彦、山室静といった当時軽井沢周辺に住んでいた文化人が携わっていた)。それで私小説と言っても、田山花袋のそれではなく、志賀直哉の心境小説にやや近い印象を受ける(日記でも志賀の小説を褒めている)。時代はどれも第二次大戦前後、主人公の苗字は基本的に「葛木」で統一されている。内容はエッセイに書かれていることと被っていることが多く、素材をあまり変形させないで書いたようだが、起伏の変化に乏しく、枚数も少ないことから、やや消化不良を感じさせないこともない。それでも軽井沢・追分における敗戦直後のやけくそな高揚感と不穏な空気を描いた「通り過ぎて行った男の顔」や、36歳の時、神戸で英語塾を開いた時の体験をもとにした「葉のそよぎ」は十分面白く読めた。

 エッセイでは、橋本が子供の頃、地主・村長の家の養子となり、そこで部落差別に直面した時のことなどが書かれている。橋本とはその養家の苗字だ。後に成長した橋本は左翼思想や有島武郎に影響を受けることになるが、その萌芽はここにある。黒人文学への共感も、そうした家庭環境から来るものだったのだろう。橋本は有島のように土地を小作人に解放することを考えていたようで、そうしたことから元々折り合いの悪かった養母と喧嘩になり、最終的に橋本は養家と絶縁する。橋本は同志社を卒業して以来、パン屋を営んでみたり、英語塾を開いて見たり、翻訳の仕事に携わってみたりと、定職につかない不安定な生活をしていたが、1942年に長野県の追分に妻(同志社時代に知り合い、1934年に結婚)とともに移住する。堀辰雄とはそこで知り合った。本書では少しだが、堀についても触れられている。

 日記には、その追分での暮らしが詳しく描かれている。また、軍人に対する嫌悪感についても書かれているが、日本軍が1941年にイギリス領となっていた香港を攻め落とした時は、中勘助の「大東亜戦争」という戦争賛美の詩を引用し、わりと素直に祝福している。戦後は「ナルシス」という文壇バーに通うことが多かったようで、よく名前が出てくる。埴谷雄高小島信夫との交流についての記述もある。橋本はかつてトロツキー伝の翻訳を手掛けたことがあるのだが、山西英一から同じトロツキストだと思われたことについては、「閉口」していると日記には書いている。

 本書の最後の方に載せられている「アメリカ文学とのかかわり」と題されたインタビューでは、これまで橋本が翻訳してきた本を中心に、文字通りアメリカ文学とどのように関わってきたかということを話している。サリンジャーThe Catcher in the Ryeを『危険な年齢』(ダヴィッド社、1952年)というタイトルで橋本が翻訳したことは一部で知られているが、当時「大出版社」からはことどとく出版を断られ、大久保康雄の紹介で何とかダヴィッド社に決まったらしい。ラルフ・エリソンの『見えない人間』の翻訳を持ちこんだ時も同じように拒絶されたとか。サリンジャーやエリソンがアメリカで有名になった後、「新潮社などには、僕のすすめた作品はいずれも傑作だっただろうと苦言を呈したところ」、「今後は先生の推薦された作品は必ず出版します」という約束をしてもらったという。『白人へのブルース』や『ブッシュ・オブ・ゴースツ』は、そうした経緯で出版された。

信濃追分でのこと」というインタビューでは、「近代文学」や「高原」との関係について語っている。「高原」の編集に携わっていた山室静・片山敏彦の二人が、堀辰雄の推薦した中村真一郎福永武彦と対立していたというのは興味深かった。加藤周一も堀経由で「高原」に関わっていたらしい。

 巻末には年譜もあり、橋本の人生が簡単に把握できるようになっている。

 

創作・エッセイ・日記 (橋本福夫著作集)

創作・エッセイ・日記 (橋本福夫著作集)