遠山純生編 『映画監督のお気に入り&ベスト映画』
ツイッターでフォローしている人がこの本に言及していたので、図書館で借りてみた。
中身は、評論家がタランティーノやウォン・カーウァイの映画遍歴について書いたものや、エリック・ロメール、キアロスタミといった有名監督が映画について書いたエッセイの翻訳(ポール・シュレイダーがヤクザ映画を詳細に分析した評論もある)、そして「世界の一流監督が選ぶオールタイム・ベストテン」といった構成になっている。その他、「映画史年表」や「アメリカ映画 ジャンル&サブ・ジャンル相関図」といったおまけも充実している。
ここにはメモ的に、「オールタイム・ベスト」の一部を転載しよう。
リンジー・アンダースン
『イギリスに耳を傾けよ』ハンフリー・ジェニングス
『歌のレッスン』リンジー・アンダースン他
『我輩はカモである』レオ・マッケリー
『新学期・操行ゼロ』ジャン・ヴィゴ
『優しい人』クロード・オータン=ララ
『大地』アレクサンドル・ドヴジェンコ
『黄金時代』ルイス・ブニュエル
『イタリア旅行』ロベルト・ロッセリーニ
『オープニング・ナイト』ジョン・カサヴェテス
『生きるべきか死ぬべきか』エルンスト・ルビッチ
『エル』ルイス・ブニュエル
『静かなる男』ジョン・フォード
『コンドル』ハワード・ホークス
『フォルスタッフ 真夜中の瞳』オーソン・ウェルズ
『チャイナタウン』ロマン・ポランスキー
『捜索者』ジョン・フォード
『暗黒街の顔役』ハワード・ホークス
『めまい』アルフレッド・ヒッチコック
ジャン=ジャック・ベネックス
『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック
『セリーヌ』ジャン=クロード・ブリソー
『白い町で』アラン・タネール
『白い馬』アルベール・ラモリス
『オペラは踊る』サム・ウッド
『モダン・タイムス』チャールズ・チャップリン
『犯罪河岸』アンリ=ジョルジュ・クルーゾ
スタン・ブラッケイジ
『詩人の血』ジャン・コクトー
『オルフェ』ジャン・コクトー
『オルフェの遺言』ジャン・コクトー
『ロンドンの雄鹿』ジョン・チェンバーズ
『対角線交響楽』ヴィキング・エッゲリング
『すべての死者たちの書』ブルース・エルダー
『モーション・ペインティング』オスカー・フィッシンガー
『詩人のベール』ピーター・ハーウィッツ
『ゴー!ゴー!ゴー!』マリー・メンケン
『このうえなく優美な死体の冒険』アンドリュー・ノーレン
『見られ続けて』フィル・ソロモン
『80日間世界一周』マイケル・アンダースン
『ドクトル・ジバゴ』デイヴィッド・リーン
『ミッドナイト・ラン』マーティン・ブレスト
『カッコーの巣の上で』ミロシュ・フォアマン
『戦場にかける橋』デイヴィッド・リーン
『イントレランス』D・W・グリフィス
『アラビアのロレンス』デイヴィッド・リーン
『タクシー・ドライバー』マーティン・スコセッシ
『山猫』ルキノ・ヴィスコンティ
『ルートヴィヒ 神々の黄昏』ルキノ・ヴィスコンティ
『捜索者』ジョン・フォード
『道』フェデリコ・フェリーニ
『皆殺しの天使』ルイス・ブニュエル
『アルジェの戦い』ジッロ・ポンテコルヴォ
『炎628』
『生きる』黒澤明
『キング・コング』メリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シェードサック
『恐怖の報酬』アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
『黄金』ジョン・ヒューストン
『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック
『乱』黒澤明
『アントニオ・ダス・モルテス』グラウベル・ローシャ
『ゲアトルード』カール・Th・ドライヤー
『キング・コング』メリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シェード
『神々の深き欲望』今村昌平
『年月を数える夜』シャディ・アブデル=サラーム
『ロビンとマリアン』リチャード・レスター
『青春群像』フェデリコ・フェリーニ
『野いちご』イングマール・ベルイマン
『黄金』ジョン・ヒューストン
『街の灯』チャールズ・チャップリン
『ヘンリー五世』ローレンス・オリヴィエ
『ザ・バンク・ディック』エディ・クライン
『ロキシー・ハート』ウィリアム・ウェルマン
『地獄の天使』ハワード・ヒューズ
『マチステの地獄征伐』グイド・ブリニョーネ
『街の灯』チャールズ・チャップリン
『怪傑ディアボロ』ハル・ローチ&チャールズ・ロジャーズ
『フランケンシュタイン』ジェイムズ・ホエール
『戦火のかなた』ロベルト・ロッセリーニ
『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック
『ベルリンで離ればなれになったトトとペッピーノ』ジョルジュ・ビアンキ
『ざくろの色』セルゲイ・パラジャーノフ
『キング・オブ・コメディ』マーティン・スコセッシ
『裁かるるジャンヌ』カール・Th・ドライヤー
『仮面/ペルソナ』イングマール・ベルイマン
『テオレマ』ピエル・パオロ・パゾリーニ
『アギーレ・神の怒り』ヴェルナー・ヘルツォーク
『マンハッタン』ウディ・アレン
『アメリカの伯父さん』アレン・レネ
『第七の封印』イングマール・ベルイマン
『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック
『キートンの探偵学入門』バスター・キートン
『ピノキオ』ベン・シャープスティーン&ハミルトン・ラスク
『片目のジャック』マーロン・ブランド
『イブの総て』ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ
『黄金』ジョン・ヒューストン
『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック
『モントリオールのジーザス』ドゥニ・アルカン
『欲望』ミケランジェロ・アントニオーニ
『突撃』スタンリー・キューブリック
『フェリーニのアマルコンド』フェデリコ・フェリーニ
『遠い雷鳴』サタジット・レイ
『まわり道』ヴィム・ヴェンダース
『不安と魂』ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
『アギーレ・神の怒り』ヴェルナー・ヘルツォーク
『愛に関する短いフィルム』クシシュトフ・キエシロフスキ
『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
『老兵は死なず』マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー
『午後の網目』マヤ・デーレン&アレクザンダー・ハミッド
『モダン・タイムス』チャールズ・チャップリン
『オルフェ』ジャン・コクトー
『ゲアトルード』カール・Th・ドライヤー
『幻影は市電に乗って旅をする』ルイス・ブニュエル
『極北の怪異』ロバート・フラハティ
『はなればなれに』とその他の作品 ジャン=リュック・ゴダール
『モンタレー・ポップ』D・A・ペネベイカー
『白いトナカイ』エリック・ブロムベルイ
『ジプシーのとき』エミール・クストリッツァ
『2001年宇宙の旅』
『マルクス一番乗り』サム・ウッド
『オペラは踊る』サム・ウッド
『我輩はカモである』レオ・マッケリー
『ターミナル・ホテル クラウス・バービーの生涯と時代』 マルセル・オフュルス
『崖』フェデリコ・フェリーニ
『モダン・タイムス』チャールズ・チャップリン
『W・C・フィールズの歯科医』レスリー・ピアス
『鏡の中の女』イングマール・ベルイマン
『黄金狂時代』チャールズ・チャップリン
ジョン・シュレンジャー
『ウンベルトD』ヴィットリオ・デ・シーカ
『生きる』黒澤明
『ファニーとアレクサンデル』フェデリコ・フェリーニ
『第三の男』キャロル・リード
『サンセット大通り』ビリー・ワイルダー
『スリ』ロベール・ブレッソン
『裁かるるジャンヌ』カール・Th・ドライヤー
『暗殺の森』ベルナルド・ベルトリッチ
『めまい』アルフレッド・ヒッチコック
『男性・女性』ジャン=リュック・ゴダール
『街の灯』チャールズ・チャップリン
『捜索者』ジョン・フォード
イェジー・スコリモフスキ
『第七の封印』イングマール・ベルイマン
『忘れられた人々』ルイス・ブニュエル
『太陽はひとりぼっち』 ミケランジェロ・アントニオーニ
『ゴッドファーザーPART2』フランシス・フォード・コッポラ
『我等の生涯の最良の年』ウィリアム・ワイラー
『アラビアのロレンス』デイヴィッド・リーン
『1900年』ベルナルド・ベルトリッチ
『南海征服』フランク・ロイド
『波止場』エリア・カザン
『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPART2』フランシス・フォード・コッポラ
『突撃』スタンリー・キューブリック
ニキータ・ハミルコフ
『国境の町』ボリス・バルネット
『ベニスに死す』ルキノ・ヴィスコンティ
『カッコーの巣の上で』ミロシュ・フォアマン
『ザ・デッド』ジョン・ヒューストン
『恥』イングマール・ベルイマン
『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック
『サムライ』ジャン=ピエール・メルヴィル
『アラビアのロレンス』デイヴィッド・リーン
『ゴッドファーザーPART2』フランシス・フォード・コッポラ
『山猫』ルキノ・ヴィスコンティ
『赤い靴』マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー
『捜索者』ジョン・フォード
抜き出してて思ったが、ちょっとみんな選ぶ映画が味気なさすぎでる。こういう『ベスト10』の楽しみって、その人の思想なり嗜好なりを知れることにあるのに、人格を感じさせないチョイスが多い。『市民ケーン』とか『8 1/2』とか『羅生門』とか『東京物語』とか『アタラント号』とか、そんなんばっかり選んで、何を言いたいのだろう。か。「名作」を抜き出しただけのリストほどつまらないものはない。もっと趣味嗜好を反映させたリスト(例えばこういうやつ)が見たかった。まあ、コラムの方が充実しているので、そっちをメインに読めばいいと思う。
秋津弘貴 『プロ野球記者会にいると絶対に書けない話』
ジャーナリストの秋津弘貴が『月刊リベラルタイム』に連載していた野球コラムを加筆し、まとめたのが本書である。中身は、「愛すべきスーパースター「長嶋茂雄」」、「名伯楽「仰木彰」の伝説と遺産」といった過去に焦点をあてたものから、「日本一「中日ドラゴンズ」の秋季キャンプ」のような現代のプロ野球について書いたものまで、幅広い。「絶対に書けない話」と銘打ってはいるが、どぎつい感じはまったくなく、プロ野球記者会というのはそんなにタブーが多い場所なのかと思うぐらいだ。
中でも興味深かった話は、「ジャパン監督「星野仙一」の知られざる「爺殺し術」」だ。星野は明大時代、「御大」と呼ばれ、鉄拳制裁で恐れられたスパルタ監督島岡吉郎に目をかけられ、部内では主将を任されるほどに出世した。星野は島岡の言う事ならなんでも従った。ある時、島岡が学内でデモをしている生徒たちを見かけ、星野に「おい、星野、あいつら赤か?」と尋ねた。星野が「ハイ」と即答すると、島岡は「殴れ」と命令した。星野は一瞬ためらったが、すぐさま「猛然と学生運動の群れに飛び込んで行った」という。何とも凄まじい忠誠心だ。今でも星野は、「明治大学野球部島岡学科卒業を公言している」のだとか。鉄拳制裁で有名だった島岡だが、「明大野球部史上、島岡吉郎の鉄拳の洗礼を浴びなかった主将は二人だけ」で、一人は星野、もう一人は高田繁らしい。高田は「万事においてソツのない優等生で殴る理由が見つからなかった」ということだが、星野に関しては「あいつ、殴ろうとすると、自分から『殴ってください』といわんばかりに顔を突き出してくるんだよ」とのこと。これが星野流人心掌握術 のようだ。
星野は島岡だけでなく、プロ引退後は、川上哲治、ドジャース会長ピーター・オマリー、中日オーナー加藤巳一郎、田宮謙次郎といった年上の人たちに取り入ることにより、地位を築いてきた。その手腕はまさに「爺殺し」。星野のこうした性格は、早くに実の父親を亡くしたことが原因ではないか(父・仙蔵は星野が生まれる三か月前に脳腫瘍で他界した)、と秋津は本書で考察している。つまり、星野は島岡や川上を、「父親の代理」に見立てているというわけだ。これは面白い見かただと思った。
ちなみに、中日新聞社は、元々戦時下の新聞統合令により、名古屋新聞社(オーナー:加藤家)と新愛知新聞社(オーナー:大島家)が合併してできた会社なので、今でもその二社を中心とする派閥が残っているらしい。加藤家に可愛がられたのが星野で、大島家に近い白井オーナーに信頼されているのが落合だ。星野と白井の間には確執があるとも言われている。ヤクルトでは古田と多菊社長が争ったこともあった。人事をめぐるゴシップはやはり面白い。
金村義明 『80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話』
金村義明と言えば、タレント兼野球解説者として、バラエティ番組などでもよく見かけるが、本書はそんな彼が文字通り「80年代パ・リーグ(一部90年代ネタもあり)」について面白おかしく語ったものだ。
テレビでも近鉄時代の裏話についてはよく喋っているので、ネタはいくつか被っている(というかそこで話題になったからこそ、本として出版されたのだろうが)。例えば、栗橋茂やジム・トレーバー、リチャード・デービスのエピソードとか。だから、テレビで彼の話を聞いていた人には、そこまで新鮮味はないかもしれない。
それでも、まとめてそれらのエピソードを読んでいくと、当時の空気感のようなものを追体験できる。藤井寺球場や川崎球場の環境の悪さ、親会社のドケチぶり、派手な乱闘、サイン盗み等々。劣悪な環境だったからこそ生まれたパ・リーグ野球。裕福なセ・リーグ球団や西武ライオンズに対する熱い反骨心がここでは描かれている。
野球界の人間関係についての話も面白い。梨田や大石大二郎が近鉄では「幹部候補」として球団から優遇されていたとか、鈴木啓示がチーム内では「ビッグワン」と呼ばれるほどの大物ぶりを発揮していたとか、西武監督時代の東尾に「ヤキモチ」をやかれたとか。鈴木は近鉄監督時代、野茂や立花龍司対立したことで有名だが、金村は鈴木の「名選手ならでは」の傲慢さについて色々と書いている。あと、中西太が未だに球界に対し影響力を持っているというのも興味深かった。中西は、ブライアント、若松勉、宮本慎也などを育てた名バッティングコーチで、雇われた先の球団では必ず中西を崇拝する教え子ができるほどのカリスマ性を持ち合わせていた。ヤクルトのバッティングコーチ杉浦繁も中西の教え子らしい。中西は、栗山監督の頼みで、最近はファイターズの選手も指導しているとか。最後に正式にコーチを務めたのはもう20年近く前になるが、中西の教えは今でも脈々と受け継がれている。
本書には、吉井理人が一時期仰木監督の起用法に不満を持っていたということも書かれている(後に和解)。近鉄監督時代の仰木は投手の起用法を巡り、権藤博ピッチングコーチと対立していたことがあって、それは『プロ野球 書いたら、あとはクビ覚悟』(リム出版)に詳細が載っている。仰木はピッチャーを酷使する傾向にあったので、投手陣からはあまり受けがよくなかったようだ。金村も「人事や采配で非情な面を見せることも多々あった」と本書の中で書いている。
80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話: 笑えて熱くてどこか切ない強烈エピソード集 (TOKYO NEWS BOOKS)
- 作者: 金村義明
- 出版社/メーカー: 東京ニュース通信社
- 発売日: 2016/03/12
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プロ野球書いたら、あとはクビ覚悟―オレだけが知っている (Lucky books)
- 作者: 秘密が守れない記者グループ
- 出版社/メーカー: リム出版
- 発売日: 1990/02
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育てたいという欲求
今、楽天では梨田監督がオコエを連日スタメンに起用しているけど、ここには梨田の「育てたい」という欲求があると思う。チーム状況的に、オコエがスタメンになってもおかしくはないんだけど、枡田、島内、牧田、聖沢といった中堅クラスの選手がいるなかで、あえて起用するというのは、オコエを優先的に育てようという意思があるからだろう。守備・走塁はともかく、オコエの打撃はまだまだだしね。だから、控えに回された選手の中には、監督に反発を持っているということも十分あり得る。元近鉄の金村義明は、同じポジションを守る中村紀洋が入団した時、口もきかなかったらしい。この辺をどう調整するかが、監督としての手腕が問われるところだ。
監督やコーチというのは、チームを勝利に導けば当然評価されるわけだけど、それ以外に「○○を育てた」ということも評価の対象になる。「師弟関係」というのは、マスコミにとっても取り上げやすいトピックだ。古くは荒川─王から、野村─古田、長嶋─松井というような形があり、また、こうした関係を築くことは、「派閥」にも繋がっていったりする。ただ、「師弟関係」によって築かれた派閥は、弟子の方が強くなり過ぎると崩壊するので、そこらへんは少し複雑なのだが。いわゆる「両雄並び立たず」というやつだ。巨人において、川上と長嶋・王が対立したのも、そういうことだろう。
オコエが育てば、それだけで梨田やコーチの池山は球史に名を残すだろう。菅野とか田中将大なんかは、どの球団に入っても活躍しただろうなという感じがするが、オコエは素材型の選手なので、余計に「育成した」感が出る。オコエがスーパースターになれば楽天にとって大きな利益になる。育てた梨田や池山は、球団に対していい顔ができるし、他球団からより良い条件でリクルートされることだってあり得る。勿論、オコエに対しても影響力を持つことができる。そういうことまで考えて、オコエを起用しているのだと僕は考えている。「育てたいという欲求」は、結構俗っぽい心理から生まれるものだ。
愛甲猛 『球界のぶっちゃけ話』
印象としては『球界の野良犬』の姉妹編というか、落穂拾いといった感じ。あっちは自伝的な色合いが強かったけど、こっちは球界全体の話になっている。
例えば、第一章「暗黙のルール」では、ベンチ内における人間関係について触れている。愛甲によれば、選手がどこに座っているか、また誰の近くにいるかで、だいたいの人間関係が把握できるとのことだ。普段のこうした人間関係が、引退後の就職に大きく影響する。中日の大西崇之は星野監督時代、乱闘要員として星野からかわいがられた。大西は「いじられキャラ」としても、上の人間からよく好かれ、それが功を奏したのか、現在では巨人の守備・走塁コーチを務めている。初芝や西村徳文もそのようなタイプだったとか。逆に、そうした人間関係・派閥付き合いを嫌ったのが、落合だ。ロッテ時代は、有藤と折り合いが悪く、彼が監督になると同時に、中日へトレードされた。優秀かつ自分の主張を強く持っている選手というのは、ある意味で監督にとって、一番の敵となり得る存在だ。かつては、川上哲治と長嶋・王の間にも対立があったというが、年長者が、自分の地位を脅かしそうな存在に対し、抑圧的になるというのはよくあることだ。
ロッテ時代の話としては、村田兆治についてのものも面白い。村田というのは、ロッテの選手としては榎本喜八に勝るとも劣らない奇人で、自身の投球の際はノーサインで投げていたにもかかわらず(おかげで捕手の袴田はよくパスボールを犯していた)、打たれた時には「なんであんなとこでストレートのサイン出すんじゃ!」と切れたとか。
本書では、野球選手の日常についても詳しく語っている。例えば、遠征やビジターの時の過ごし方や、球場のロッカールーム、取材事情など。紙媒体はギャラが安いから、大物ほど断るようだ。また、選手同士の子供が結婚することもほとんどないとか。
こうしたグラウンド内外の裏話が色々と展開されているので、今後プロ野球の人事などについて考えるうえで、この本に書かれているようなことを頭に入れておけば、もっと見方に幅が広がるんじゃないかな。
最後に一つだけ言っておくと、本書の中で、ヤクルトのキャッチャー大矢が、試合中に審判から「トイレに行きたいから早く終わらせてくれ」というようなことを頼まれ、それを利用し際どいコースを全部ストライクにとってもらい相手を三球三振に仕留めたが、審判の方がイニング終了までもたず、三振後すぐにトイレに駆け込んだという逸話が紹介されているのだが、これはちょっと違う。トイレに駆け込んだ審判というのは、三浦真一郎のことだが、駆け込んだのはイニングが終わってから。また、愛甲の本では、大矢がトイレに駆け込んだ審判に気を使って、放送席のウグイス嬢に「スパイクのヒモが切れた」という嘘のアナウンスを流すように頼んだということになっているが、ウグイス嬢にそう言ったのは、ヤクルトのコーチ丸山完二だ。このことは三浦真一郎がホストを務めた対談本『プロ野球 本当のことだけ喋ろうぜ!!』(リム出版)に書いてあるので、こっちが正しいと思う。細かいことだが一応記しておく。
プロ野球 本当のことだけ喋ろうぜ!!―みんな聞き出しちゃった (LUCKY BOOKS)
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古田が監督に向いていないと考えるいくつかの理由
名捕手=名監督という図式がプロ野球界には根強く残っている。野村克也、森祇晶、そして最近では伊東勤もその仲間に入りそうである。そのため、ヤクルトでは結果を残せなかった古田が、再度監督に挑戦することを期待している人は多い。だが、僕は古田という人はあまり監督に向いていないのではないかと思う。より正確に言えば、大人数を統率するタイプではないという感じだ。その理由をいくつかあげていこう。
まず、現役時代の古田はケチで知られていた。球界では年上の選手が若手に飯をご馳走することは珍しくないが、古田は奢るのが嫌でそうしたことをほとんどしなかったという。また、珍しく誘ったかと思えば、「牛丼食ってから来いよ」と水を差すようなことを言ってみたり。そういうわけで若手受けはすこぶる悪かったわけだ。性格的には、親分肌ではなく、限られた友人との交際を好むタイプのように見える。監督になったら、コーチとばかりコミュニケーションを取って、選手がほったらかしになるのではないか。
性格の話で言えば、古田は意外に感情のアップダウンの差が激しい。現役時代は冷静沈着に見えた彼だが、解説の仕事では視聴者に違和感を感じさせるほど、露骨に感情を出すことも珍しくない。星野仙一のように、軍人的カリスマ性があれば、それでも通用するかもしれないが、古田の場合、単に雰囲気が悪くなるだけだ。
これは穿った見方かもしれないが、古田はあまり人を信じていないのではないか、とも僕は思う。これは大学生の時にドラフトで煮え湯を飲まされたことに起因する。トヨタに入社し、後にヤクルトのスカウトが挨拶に来た時、古田は「本当に指名してくれるんでしょうね」と何度も確認したそうだ。そういった事から、古田は仕事を人任せにはできないタイプとなった。隅々まで自分の眼が行き届いていなければ気が済まないコントロールフリークなのだ。そうした人は失敗やハプニングを人一倍嫌う(だから、解説の時に、選手のミスを見て、怖いぐらいにイライラしているのかもしれない)。恩師である野村はおだて上手で、江本孟紀、江夏豊、山崎武司といった問題児・異物を積極的に取り込んでいったが、古田にそのような芸当ができるのかといえば疑問である。
さらに、ヤクルト監督時代、古田は運営や選手獲得を巡り、フロント(多菊善和球団社長)と対立したことがあった。これに対しては、勿論、古田側、球団側、二通りの見方ができる。しかし、ここであえてフロント側に沿った発言をするとこうなる。「その意見が正しいとか正しくないとかはどうでもいい。『意見をする』という行為自体が間違っているのだ」。フロントが監督を選ぶ際、まず重視するのは、従順であるか否かということだ。金村義明によれば、現役時代の梨田は、フロントに取り入るのが上手かったという。落合博満も、オーナーと懇意である。もし、監督を目指すのなら、こうした関係性を築くのが急務になるだろう。時には妥協しなければならない状況も出てくる。古田はどこまで自分を殺すことができるだろうか。
今の古田の職業は解説者・タレントだが、そういった個人の力を存分に発揮できる仕事の方が古田には向いているような気がする。フロントと選手の調整役となるには、自我が強すぎるのかもしれない。
あと、古田について気の毒に思うのは、野村がいつまでも生きているということ。野村が生きている限り、古田は永遠に「野村の弟子」というポジションのままだ。
参考文献
80年代パ・リーグ 今だから言えるホントの話: 笑えて熱くてどこか切ない強烈エピソード集 (TOKYO NEWS BOOKS)
- 作者: 金村義明
- 出版社/メーカー: 東京ニュース通信社
- 発売日: 2016/03/12
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プロ野球を10倍楽しく見る方法―抱腹絶倒! (ベストセラーシリーズ〈ワニの本〉)
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村上春樹とブライアン・ウィルソン──「サーフィンUSA」が見せた夢
村上春樹がビーチ・ボーイズについて書いた文章はいくつかあるが、ここでは以下の二つを中心に取り上げたい。一つ目は、『季刊アート・エクスプレス』1994年夏号に掲載された「神話力、1963、1983、そして」(以下「神話力」)。そして、二つ目は、『Stereo Sound』2003年夏号に掲載された「ブライアン・ウィルソン――南カリフォルニア神話の喪失と再生」(以下「喪失と再生」。引用は『意味が無ければスイングはない』から)。ちなみに、これ以外の物としては、ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』のあとがきと『村上ソングズ』の「神のみぞ知る」、『カリフォルニア・フィーリン』のライナーなどがある。
「神話力」は、「喪失と再生」の原型ともなった文章である。両方とも、ブライアン・ウィルソンの現在について触れているが、その書き方にまず違いがある。
「神話力」では、ブライアン・ウィルソンについて、「ビデオで見るかぎり(中略)まともに歌を歌えない状態にある」と村上は言い、さらには「彼らが現在の状態で新しいアルバムを吹き込むのは難しそうだが、しかしいったい今さら誰が熱烈にビーチ・ボーイズの新譜を待ち望んでいるのか」とまで言い切っている。「彼(ブライアン)が僕らに向かって語りかけるのは夢の記憶ではなく、夢の不在だ」という言葉も印象深い。
それから9年後に書かれた「喪失と再生」の方でも、ブライアンのライブについて「その声には、若いころのスイートな張りはない」と書いてはいるが、「聴くものの心を打つ」とブライアンを擁護するような言葉が挿入されている。
簡単に結論を出してしまえば、「神話力」のほうは「喪失」だけがテーマとなっている。「しかし、どのような響きも二度と空気を震わせはしない」という文章で村上はこのエッセイを終わらせている。
一方「喪失と再生」の方はそこに文字通り「再生」というテーマが加わる。94年の時点では、ブライアンを過去に生きる人として捉えているわけだが、2003年の文章ではスコット・フィッツジェラルドの言葉を引き合いに出し、一旦は破滅したブライアンの人生に「第二章」があったのだと結論づけている。94年といえば、ブライアンのソロ・アルバム『駄目な僕』が出る前だから、村上がブライアンのキャリアを終わったものだと考えていたとしても不思議ではないだろう。前作が出たのは約7年前だし、ライブ・パフォーマンスも目に見えて衰えていた。多分、ブライアンのソロ発売後、村上は「神話力」を書き直したいと常々思っていたのではないだろうか。今に至るまで、この文章が単行本に収録されていないのは、そういうところに理由があるのだろう。
「神話力」ではビーチ・ボーイズの魅力について「サーフィンUSA」を中心にして語っている。「サーフィンUSA」は村上が初めて聞いたビーチ・ボーイズの曲であり、このことに関しては「喪失と再生」でも「神さまだけが知っていること」でも触れており、彼にとって重要な体験だったのだろう。「神話力」では、「その”SURFIN”という言葉のひびきは、十四歳の僕にとってものすごく異国的で魅惑的だった」と書いている。ある種の現実逃避だ。
そして、村上と同じように、ブライアンもまた「サーフィン」や「カリフォルニア」を現実とは違う「寓話」として捉えていた。
結局のところ、今にして思えば、ブライアン・ウィルソンの音楽が僕の心を打ったのは、彼が「手の届かない遠い場所」にあるものごとについて真摯に懸命に歌っていたからではないだろうか。燦々と太陽の光の降りそそぐマリブ・ビーチ、ビキニを着た金髪の少女たち、ハンバーガー・スタンドの駐車場にとまったぴかぴかのサンダーバード、サーフ・ボードを積んだ木貼りのステーション・ワゴン、遊園地のようなハイスクール、そして何よりも永遠につづくイノセンス。それは十代の少年にとっては(あるいはまた少女にとっても)まさに夢の世界だった。僕らはちょうどブライアンと同じようにそれらの夢を見て、ブライアンと同じようにその寓話を信じていた。(「神話力、1963、1983、そして」『季刊アート・エクスプレス』1994年夏号、pp.25-26)
村上はこのエッセイの中でブライアンの「イノセンス」を高く評価し、「「ペット・サウンズ」以降の成熟した新しいビーチボーイズはそれ以前と同じように魅力的なバンドだった。でもそこにはもうあの「サーフィンUSA」が与えてくれた留保のない手放しのマジックはなかった」ということまで書いている。ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』の訳者あとがきで、「世の中には二種類の人間がいる。『ペット・サウンズ』を好きな人と、好きじゃない人だ」と書き記したのが信じられないくらい、この頃の村上は「サーフィンUSA」の方に評価の軸を傾けていた。
「再生と喪失」では、村上はほとんど「サーフィンUSA」には触れず、『サンフラワー』と『サーフズ・アップ』をメインに語った。「再生」をテーマとしたからには、「イノセンス」について触れるのは難しかったのかもしれない。「再生」という言葉には、「成長」という意味が含まれている。成長するということは「イノセンス」から解き放たれることだ。かつてブライアンに「イノセンス」という点から共感した村上は、今度は「再生」という点からブライアンに共感した。「再生と喪失」の最後に村上はこう書いた。「少なくとも我々は生き延びているし、鎮魂すべきものをいくつか、自分たちのなかに抱えているのだ」と。
「寓話」としてのカリフォルニアを、二人は見送っている最中だ。あたかも「青春」を埋葬するかのように。
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- 作者: ジムフジーリ,Jim Fusilli,村上春樹
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