石原慎太郎 坂本忠雄 『昔は面白かったな 回想の文壇交友録』
石原慎太郎が文壇について書いたもので、俺がまず思い出すのは、『わが人生の時の人々』に収められた「水上勉を泣かした小林秀雄」で、これは酒席で酒乱の小林秀雄に絡まれていた水上勉を、小林を論破するという形で助け出したら、逆に小林から気に入られたというエピソードを書いたものだが、酒を飲まない俺としては余計に小林の人間性が嫌いになった。
他には、『三島由紀夫の日蝕』という、三島由紀夫との思い出を軸にした三島論があり、これも面白かった。
そういうことがあったので、『昔は面白かったな』もそれなりに期待して読んでみたのだが、部分部分で興味深いところはあるものの、全体としては物足りなかった。というのも、石原ほどのキャリアを持っている作家なら、自分の人生についてあらゆるところで書き喋っているから、それらをある程度追っていたゴシップ好きの自分(もちろん石原の膨大な著作からすると何十分の一でしかないが)としては、既に知っているような話が多かったからだ(無論、上にあげた小林秀雄の話も載っている)。
また、石原が「僕の話、もうしなくていいよ(笑)」ということを三回ぐらい言うほどに、対談相手である『新潮』の元編集長坂本忠雄がインタビュアーに徹して石原にばかり喋らせていて、文壇の裏側を知悉しているはずの坂本自身がもっと積極的に話せば、それこそ「文壇交友録」になったのではないだろうか。
とりあえず、『昔は面白かったな』から、自分が気になったところを取り上げ、解説を加えてみようと思う。
坂本 僕は石原さんから聞いたんだけど、川端さんは三島さんのこと嫌いだったんじゃないかって。
石原 嫌いだったと思うね。敬遠してたんだよね。付きまとわれて。
坂本 三島さんのほうが付きまとっていた?
石原 そうだね。
坂本 仲人だしね。
石原 盾の会の閲兵式を国立劇場の上でやる時、川端さんに祝辞を述べて下さいって言ったら、「嫌です、絶対に嫌です」って断られたんだって。それを三島さんが愚痴ってさ。僕は村松剛と仲良かったんだ。剛さんと何度か外国旅行もしたんだけど、剛さんが「慎ちゃん、三島がこの頃死にたがって死にたがってしょうがないんだ。本当心配なんだよ」って。その後、川端さんも意地悪なんだよな。頼みに行った時、「嫌です、絶対に嫌です」って二回言った。それで三島さんもショックを受けて、あの人を見損なったって言った。
この本以前に読んだ『この名作がわからない』の中で、小谷野敦が三島について「慕われた川端は迷惑したと思いますよ」と言っていたが、これでその裏付けとなった。三島の父親は、盾の会の件で川端を恨み、三島の死後『諸君!』で川端批判の文章を書き、川端を激怒させた(小谷野敦『川端康成伝』)。
坂本 (坂本氏「文学の不易流行」(「新潮、一九八八」)を取り出して)久しぶりに「新潮創刊千号記念号」の座談会を読んだんですけど、これ、面白かったですよね。
石原 うん、面白かった。最近また読んでいる。
坂本 僕が司会したんだけど。
坂本 これ、傑作ですよ。自分がやって言うのも変だけど。
石原 この時なぜか大江がね、「石原さんのヨットは人生的な意味が分かるけど、開高さんの釣りは怪しいな」って言ったんだよ。なんであんなこと言ったんだろう。
坂本 一種のジェラシーかも知れないね。
「文学の不易流行」は、江藤と大江が、『群像』で行われた対談「現代をどう生きるか」(1968年1月号)以来、久方ぶりに公の場で同席したという意味で珍しいものとなっている。『群像』が発売される前、江藤、大江の順で、『三田文学』に秋山駿によるインタビューが掲載されたが(秋山はその時未だ二人の対談を読んでいなかった)、そこで大江は、「江藤さんの批評を必要としない」、「江藤さんとの対談はもうごめんこうむるつもりです」とまで言い、江藤の『小林秀雄』が読売文学賞に落選した時、彼の父が選考委員である佐藤春夫に電話で抗議したということまで暴露した。『群像』と『三田文学』での発言から、二人は決定的に訣別したと言われていたから、この座談会はある種の驚きを呼んだ。
しかし、仲直りしたということではなく、座談会から二ヶ月後の『新潮』(1988年7月号)に掲載された第一回三島由紀夫賞(大江と江藤は選考委員だった)の選評で大江は「「天皇」という一語が発せられるだけで、座談会そのものが消滅してしまう、埋めようのない淵が、江藤と僕の間に開いているのを、僕は認めていた。おそらく江藤も同じで、司会役としてそれを避けたのだろう」と書き、依然として対立状態であったことを明らかにしている。ちなみに、石原の天皇観については『ユリイカ』の石原慎太郎特集で猪瀬直樹が次のように言っている。
(注:三島・石原の対談「守るべきものの価値──われわれは何を選択するか」のなかで)どちらも日本の風土に根ざすものを言いながら、三島は三種の神器=天皇だと言っていて、石原は天皇じゃないと言っている。不思議なことに、ぜんぜん違う。僕も『ミカドの肖像』のなかで西洋人に対して三島由紀夫的な説明をしているんですね。ヨーロッパはピラミッド型の組織だけれど、東京は中心が皇居というブラックホールにもかかわらず、同じ近代を達成しているんだと。ところが、石原さんは天皇はいらないと言っている。東京都の儀式なんかで「君が代」斉唱のときに、石原さんの横に立っていたら、石原さんは「君が代」と言っていないんだよ。「われらが代」って言っているんだ(笑)。おもしろいよね。「君」じゃないんだ。「君」は天皇だから、天皇なんて負けた戦争の責任者だろうくらいに思っているんですよ。僕にもそういうニュアンスのことをチラッと言ったこともある。僕は『ミカドの肖像』も書いているから、一度、なにかの雑誌で天皇制について石原さんと対談しないかと打診されたことがあったんだけど、石原さんは「天皇興味ねえ」ってそんな反応で、けっきょくその対談はやらなかった。「変人・石原慎太郎」
座談会はそういう爆弾を抱えた状態で行われたため、つっこんだ話はなく、当時運輸大臣だった石原を「大臣、大臣」と適宜いじることで、無理やり平穏なムードを演出しようとしている。
そんな中で、話題が開高の魚釣りに及んだ際、まず江藤が「開高の魚釣りというのは、僕は素晴らしいと思う傍らね、なんかちょっと、哀しい感じもあるんだ」と言い、
大江 開高さんのおもしろい点はね、釣りの話でね、いつも一番大切なことはとっていて、釣り旅行記には書かないでおいてるという感じが何時もするんだがな。
開高 違う。違う。違う。
石原 あなたもそう思う? そう思うだろう。僕、そう思うんだなあ。ジェニュインなものがないんだな(笑)。
開高 違うんだ。ちょっと違うんだ。
大江 今、整理するからね、僕たちは同じことを感じているわけだ。石原は、開高さんの作品に釣りの中の本当のジェニュインなものがないと感じるわけね。石原は、自分の小説の中で、本当にジェニュインなものだけを釣ろうとしていて、魚なんかは釣ろうとしていない。
開高 ああ。
大江 僕のいっていることは、彼と違ってね、ここにあるはずの大切なものは別の時、小説を書く時にとっておいていると。
「ヨット」という単語は出てこないのだが、石原が上で言っていたのはこのあたりだろうか。これから一年半後ぐらいに開高は死ぬのだが、その際『新潮』で大江と石原による追悼対談「現代を生きる作家」(1990年2月号)が組まれ、より率直に開高について語っている。例えば、大江が石原と開高の小説の違いを比較し、それを受けての石原の発言。
石原 僕は前に、あなたと開高さんと江藤淳さんと四人で「新潮」千号記念号の座談会をしたときに、大江さんが「開高さんの釣りの文章は石原さんの小説の中のとちょっと違う」と言ったでしょう。それについて僕がどうのこうのというつもりはないけど、その言葉を思い出したのね。釣りなら釣りに本当に情熱を燃やし、熱中し集中するのならいいのだけれども、何か作家の実在というものに絡んでの燃焼というよりも、あの人は割とそれに関するペダントリーについて情熱的で、いつもいろいろ説教が出てくるのだな。『珠玉』も定年前のサッカー選手のフットワークみたいで、ちょっと重いんだな。『夏の闇』というのは僕もとても評価した小説だけれども、これだって彼のとてもいい短編に比べると、やや饒舌というのか、ペダントリーがあってね。
石原も大江も、開高が「俗物」だったということを言いたいのだろう。石原は「本ものグルメは、いかにもなれたという様子を見せないし、第一、しゃべらないよ。僕は、彼の宝石や釣りや、猟や美酒美食のお師匠さんになる人をよく知っているけど、彼はいつもにこにこ笑って黙っているからこそ、大通で、名人なんだな」とも語っている。大江は開高が三島の次の作家を狙っていたと指摘しているが、確かに二人とも、知識人でありつつ、若者受けする文章も書く、という硬軟併せ持つタイプであった。そして二人とも、「こういう風に見られたい」と意識しながら行動する人間でもあった。
開高はある時期から現代文学の不振ということを盛んに言い立て、金井美恵子からその身振りを揶揄されたり、石原からも新潮での座談会で「小言幸兵衛」と言われていたが、そういう大仰な感じが、すべてにおいて彼の行動をわざとらしく見せるのだろう。三島にしても開高にしてもそういうあざとい感じが文学の外にいる人間にも受ける要因となっていたのだろうが、そのおかげで、文壇からは嫌われ、文学賞には恵まれなかった。坂本によれば、そのことで開高はふて腐れ、「最後に「夏の闇」を書いた時もみんな傑作だと褒めたのに、受賞を断ってしまった」ということがあったらしい。『夏の闇』は「文学賞の世界」というサイトで確認する限り、3つの文学賞の候補に上げられ、全て落選しているが、その中のどれかということだろうか。
ちなみに、江藤にも「俗物」的なところは多分にあって、江藤と大江がまだ決裂していなかった頃、江藤・大江・石原でよく飯を食べにいったらしいが、「江藤はなぜか開高をあまり呼ばなかったな」と石原は坂本に言っていて、それは恐らく同族嫌悪によるものだと思われる。大江と石原の追悼対談が載った『新潮』には、江藤による追悼文も掲載されているが、最後の「君がさっさと先に逝ってしまったのだから、私もそろそろ締めくくりの支度をはじめなければならない」という文章は、江藤が自殺したことを知って読むと不気味である。しかし、それに続く「今はやすらかに、うまい酒でも飲みながら待っていてくれたまえ」という文のセンチメンタルな臭みには、辟易するが。
江藤は石原文学の理解者としても知られていたが、石原本人は文筆家としての江藤を認めていなかったようで、『昔は面白かったな』では次のように言っている。
石原 (前略)江藤の文体は僕は嫌いなんだよ。「海は甦える」なんか、非常に説教がましくて、押し付けがましくて。彼の解釈とか理解には感謝はしたけど、文章は固くて説教がましかったね。でも、「幼年時代」はとってもこなれて、奥さんを含めた母親に対する本当の思慕が表れていて、いい文章だったね。
石原は江藤が「およそ非肉体的な人間だった」とも喋っているが、三島といい江藤といい、運動音痴から来るコンプレックスによって、石原に接近するということがあるようだ。石原文学を認めることが、コンプレックスの解消に繋がるかのように。石原本人も、その二人について「肉体的な条件から見て、僕に対して羨みみたいのがあったんでしょう」と言っている。「羨み」ということでは、伊丹十三と大江の関係もそれに近い気がする。運動以外では、江藤、三島共に、政治と関わることに関心を持ち、晩年の三島は先駆けて議員となった石原に変な絡み方をした。
三島と開高が文壇では不遇だったことは少し前に書いたが、石原もそれは同じで、『化石の森』が新潮の日本文学大賞の候補になった時は、同じく候補に挙がっていた福田恆存が劇団を抱えていて大変だということで、福田の 『総統いまだ死せず』が受賞した(河上徹太郎の『有愁日記』も同時受賞)。それを主導したのは、選考委員だった大岡昇平と中村光夫らしい。といっても、大岡に対してはそこまで憤ってはおらず、文学賞の選考に関して、石原が本当に嫌っていたのは吉行淳之介だ。
江藤は、第19回谷崎潤一郎賞の選評をもとに、吉行が文壇政治を行っていることを『自由と禁忌』で批判し、「文壇の人事担当常務」と呼んだ。その時の谷崎賞を受賞したのは古井由吉『槿』で、落選したのは中上健次の『地の果て 至上の時』だったが、中上と吉行は友好関係にあり、江藤と対談した時も、「(注:吉行について)僕は江藤さんのように、文壇の人事係とか、そんなふうに露骨には思わない」と擁護している(「今、言葉は生きているか」)。谷崎賞で中上を落とし続けたのは、丸谷才一だと言われている*1。
石原と吉行が激突したのは、『文學界』(1989年3月号)に掲載された、「賞ハ世ニツレ 芥川賞の54年に見る「昭和」の世相と文壇」と題された芥川賞を巡る座談会上でだ。出席者は、芝木好子・吉行淳之介・石原慎太郎・大庭みな子・池田満寿夫・池澤夏樹。昭和10年代から60年代まで10年ずつに分けて、その中で芥川賞を受賞した作家の中から代表者を一人ずつ選んでいる。石原と吉行の文壇政治をめぐるやり取りは以下の通り。
石原 やっぱり芥川賞は新人の賞ですよ。直木賞とそこが違うんだよ。直木賞はちょっとポリティカルなところがあるし、唯一芥川賞がフェアな賞だからいいんだよ。あとはアンフェアだよ、他の文学賞なんておおかた、芸術院と同じだ。ちゃちな政治がらみで本当に奇々怪々だもの。やっぱり芥川賞はフェアである限り続くでしょう。続いてもらいたい。
池田 それはフェアだと思う。ぼくに賞をくれたんだもの。
吉行 あのね、意地でフェアなの。
石原 しがらみがないからな。芥川賞をもらったあと五年、十年、みんな紙一重のところで闘ってるよ、それは。しかし、それから後の問題は、言わないけどいろんなことがあるよ。やっぱり総じて芥川賞以後のプロセスの賞にはいろんな問題がある。
吉行 そんなの、ないよ。
石原 ある。
吉行 ない。
石原 ある。あんた、芸術院なんてところにいて、そんなこといってたって通じないよ。
吉行 まあいい、あとでやろう。
吉行 芥川賞は公平だけど、情実がないといったほうがもっと正しい。
石原 ほかの賞は情実があるな。いろいろあるぞ。
吉行 情実というより、なげやりなところが出ざるをえない場合があるんだよ。
石原 うまいこと言うな、やっぱり文士は、言い逃れがうまい。吉行さんは日本の文学を投げてるわけだな。
吉行 いや、ちょっと聞いてくれ。違う角度からわかりやすく言うから。
石原 あなたのような人は毅然としてもらいたいね。
吉行 (前略)ある作家が芥川賞候補になったとき、人を介して、委員にたいしてどうすればいいんですかとぼくに訊いてきた。その頃ぼくは賞を貰って数年目といったところでね、もしそういうことをしたら、入るものも落ちるよと言っておいた。
石原 なるほど(笑)。芸術院とは逆だよな。
吉行 それから、これは特に石原さんに聞いてもらいたいんだけど、既成作家が既成作家の作品を決めるのは嫌なんだ。だから、新人賞は勉強のために、また一種の義務感で引き受けるけど、あとのものは一切ノータッチにしようと思って、谷崎賞の委員は三年断った。ところが、やっぱり浮世の義理というのがあるね。どうしてもダメだね、引き受けさせられた。あとは芋づるだよ。
ちなみに、この時点で吉行が選考委員を務めていた文学賞は、芥川龍之介賞・泉鏡花文学賞・ 川端康成文学賞・中央公論新人賞・谷崎潤一郎賞・野間文芸賞・読売文学賞・柴田錬三郎賞+日本藝術院会員。文壇の主要な賞にはほぼ顔を出していて、文壇政治家と見られても仕方がないところはある。もし賞が欲しかったら、後輩作家は自ずと吉行批判を抑えざるをえないからだ。
上にピックアップしたやり取りだけでも、結構険悪だが、活字にした際、結構削られたらしい。『群像』(2018年3月号)で行われた西村賢太との対談は次のように述べている。
石原 (前略)そもそもは、文藝春秋で芥川賞の集まりがあってね、そのときに僕が吉行に「お前は芸術院の会員か」と聞いたら「そうだ」と言うので、「俺を芸術院の会員にしろよ」と言ったら、「だめだ。君なんかは我々は必要としていない」と言うから、「偉そうなことを言うな。じゃ、大江をしろ。江藤をしろ」と言ったら、「彼らも必要としていない」と言うから、「おまえの小説は必要とされていないから全然売れねえじゃないか。彼らのほうがよっぽど売れてる。俺だってたくさん本が売れてるぞ。おまえと違って必要とされるより売れてるんだよ」ということでけんかになったんですよ。当時の「文學界」の編集長に、「これはちゃんと載せろよ」と言ったけど、遠慮して載せなかったんだな。その後、エーゲ海の何とかという変な小説を書いたやつ、何と言ったっけ。
西村 池田満寿夫。
石原 あれが酔っぱらって入ってきてゴチャゴチャになって、険悪な雰囲気がおさまっちゃったんだよ。(後略)
藝術院のことについては、『en-taxi』(2014年冬号)で行われた、坪内祐三によるインタビューでもこんな風に言っている。
石原 芸術院ってのは良くないよ、本当に。税金の無駄だよ。芸術院の会員を選ぶときになると、元老みたいな審査員が京都にいっぱいいるから、古典芸術に関係ある連中は賄物を持ってそこをまわるんだ。ただ、相手が多くて普通はとても一日じゃまわりきれないんだけれども、その専門の運転手に頼むと一日でパッとまわってくれる。どうも人間の世界っていうのは皆そうで、どこもアンダーテーブルですよ。
坪内 十数年ぐらい前に『佐藤栄作日記』が公刊されましたけど、あれを読むと、文化勲章の候補が決まる時期になると必ず東郷青児や堀口大學が佐藤栄作のところを訪ねてきて、それを「俗物なり」みたいな感じで佐藤栄作は書いているんです。
石原 佐藤栄作はそこまで読み切ってるわけだ。
石原と吉行のその座談会後も続き、大江の勧めで書いた『わが人生の時の時』(1990年)が、吉行が選考委員を務めていた野間文芸賞の候補となったが、吉行が「こんなのは小説じゃない」と言って落としたらしい。野間文芸賞は候補作を発表していないのだが、1990年度の選考会では吉行が欠席しているので、恐らく翌年のことだろうか。その際の受賞作は河野多恵子『みいら採り猟奇譚』(1990年)で、選評では全員河野の作にしか触れていないため、他の候補作が何だったのかは結局わからない。
参考文献・サイト
「藝術院とは何か?」を収録
おまけ
江藤淳は吉行淳之介を批判したが、江藤と対談した中上は吉行とは友好的だった。写真は『唐十郎血風録』より。
恐るべきパフォーマンス・アートの世界
人体を使った、奇天烈、無謀、グロテスク、意味不明なパフォーマンス・アートをまとめてみた。一部閲覧注意。
Light/ Dark- Marina Abramovic & Ulay- performance art
Marina Abramović & the arrow that could have easily taken her life (Rest Energy, 1980)
Yves Klein - Blue Women Art - 1962
Yoko Ono Cut Piece 1965 Music Yoko Ono Darkness Georgia Stone avi
Selbstbemalung/Selbstverstümmelung, (1965).
Rudolf Schwarzkogler - "4. Aktion" (1965)
George Mathieu y Vangelis en Improvisation 1971
joseph beuys-I liked america and america likes me, 1974
ORLAN, Omniprésence, 1993. Extrait
Tehching Hsieh - One Year Performance 1980 -- 1981 (Time Clock Piece)
Wall floor positions, 1968. Bruce Nauman
Vanessa Beecroft: VB64 Performance / Sculpture at Deitch Studios, Long Island City
Pussy Riot Punk Prayer Virgin Mary, Put Putin Away English Subtitles YouTube
MURAKAMI,Saburo "Passage" (1994)
Vox Pop: "Sem título (Blood Sign #2 / Body Tracks)" de Ana Mendieta | Museu Coleção Berardo
Artist Spotlight: Andy Warhol Eats a Hamburger
「教祖」から抜け出すことの難しさ
教祖化する文筆家というのがいる。横光利一とか、小林秀雄とか、吉本隆明、柄谷行人とかだ。彼らはみな晦渋な文章を書いたという共通点があるが、それだけではない。難解であるというだけでは、「教祖」になることはできない。教祖になるために必要なのは、「はったり」と「同時代性」と「人間的魅力」である。
しかし、ここで書きたいのは、教祖批判ではなく、教祖的なものから抜け出すことの難しさだ。Aという教祖を批判しても、Bという教祖には心酔する、もしくは教祖を批判しつつ自分自身が教祖化していく、そういうことが往々にしてあるのである。
小林秀雄の批判者としては、ずばり「教祖の文学」を書いた坂口安吾が知られている。この文章は1947年に『新潮』に発表されたもの。内容は、坂口が「小林の文章にだまされて心眼を狂わせていた」と告白することから始まり、小林の文章技法を説明していく。
彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである。
自明ではないことをあたかも自明であるかのようにして押し切っていく。これが俺のいう「はったり」の一つであるが、安吾にしてもそうした「はったり」と完全に手を切っているわけではない。「教祖の文学」の前年に書かれ、彼を有名にした「堕落論」もまた、その手のレトリックが使われている。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければいけない。
「正しく堕ちる」とはいったいどういうことなのかよくわからないが、坂口にはわかっていたのだろうか。こういう非論理的ながらも、勢いで持論を展開するやり方は、彼が批判した小林と似ている。実は、「教祖の文学」にも、そういった激情的な部分が見受けられ、特に後半になるとそれが一層加速し、あたかも失恋した人間が恨み言を述べているかのようにも見えてくる。元々、坂口は小林を「盲信」していたのだから。
もしも、私たちの面前に「俺はこれから堕落しようと思っているんだ。堕落したら救われるからネ」などと得意になっているような手合いが現れたらどうであろう。しかもそいつが、「俺は正しく堕落する考えだ」などといったら、私たちは閉口するほかあるまい。それこそ自分に甘え他人に甘えた鼻持ちならぬ観念家である。卑屈にして傲慢なる独善的自己陶酔でありかつ自己欺瞞。ましてや、かかる人物が、そのような意識を抱くことによって自虐しているなどと考えるならば、それは即ち最も低俗な意味での自愛でしかない。(「贋の季節」 坪内祐三編『「文壇」の崩壊』所収)
十返は、一時期売れっ子評論家になったが、坂口や小林のように、カリスマになることはなかった。それは、「軽評論」と呼ばれた、明快で地に足のついた文章によるものだが、俺はそんな十返が好きである。是非、読んでもらいたい。
話を「教祖から抜け出すことの難しさ」に戻すと、最近では鹿島茂のケースがある。鹿島には、『ドーダの人、小林秀雄』という著作があって、ここでは「ドーダ」という概念を使い徹底的に小林のはったりを暴き出しているのだが、吉本隆明について書いた『吉本隆明1968』では、「吉本隆明の偉さ」についてひたすら解説するだけに終っている。呉智英が『吉本隆明という「共同幻想」』の中で書いているが、鹿島は小林の「アシルと亀の子」というタイトルの付け方のはったりを指摘していながら、同じはったりを用いた吉本の「マチウ書試論」については何も言っていない。小林のはったりには鋭く切り込める鹿島も、吉本に関しては大学生の時に衝撃を受けて以降、その影響から抜け出せなかったということになる。『吉本隆明1968』という書物は、鹿島(とその世代)にとってなぜ吉本が重要だったかということはわかるが、その「偉さ」については、まったく理解できなかった。「同時代性」というのは、それぐらい激しい呪縛なのだろうか。
しかし、『吉本隆明という「共同幻想」』(2012)で吉本を批判した呉も、『読書家の新技術』(1982)では『共同幻想論』に対し、「内容は重要」と書いていた。
ジェニファー・ライト 『史上最悪の破局を迎えた13の恋の物語』
国会図書館サーチで、日本語で書かれたノーマン・メイラーについての記事を見ていたら、この本がひっかかった。去年の9月に出版されているのだが、新刊情報に疎いせいで今まで見逃していたのだ。クリックし、掲載されている目次を見ると、自分の関心領域と被っているところが多かったので、さっそく読んでみた。
内容はタイトルからもわかる通り、有名人たちの恋愛物語。取り上げられているのは、前半がネロ、アリエノール・ダキテーヌ、ヘンリー八世などの貴族で、後半になると、バイロン、オスカー・ワイルド、イーディス・ウォートン、ノーマン・メイラーなどの文学者が多くなる。女が主役の章もあるが、印象に残るのは、ネロとかラスキンとかオスカー・ココシュカとかノーマン・メイラーのような、サディスティックな奇人たちだ(例外として、アンナ・イヴァノヴナ)。
基本的には非常に軽い読み物で、その分野に詳しい人にとっては物足りないだろうが、自分はオスカー・ワイルド以外知らないことが多かったので、興味深く読めた。ただ、「古代ローマ時代には、同性愛の関係は難色を示された」とか、ヴィクトリア朝が性に対し抑圧的だったとか、疑問符がつく記述も少なくない。また、ユーモアのつもりなのかジョークを大量に散りばめた文章もうっとおしい。なので、具体的な人物描写に焦点を絞って読むのをおすすめする。
自分が驚いたのは、美術評論家のラスキンが、結婚初夜に妻との同衾を拒んだこと。本書によれば、ラスキンは小児性愛者で、成長した女の身体に興味を持てなかったようだ(といっても相手は当時19歳だったのだが)。また、イーディス・ウォートンが、アル中で鬱病だった夫とは肉体関係を持てず、45歳の時にヘンリー・ジェイムスの友人との間に起きた情事が、ほぼ初めてのセックスであったというのも、驚愕だった。
バイロンとキャロライン・ラムとの関係については、アンドレ・モロワの『バイロン伝』で知っていたが、本書で描かれているバイロンに対しラムが行ったエキセントリックな行動については少しバイロンに同情した(しかし、同じモロワの書いた『シェリイの生涯』を思い出すと、バイロンには怒りしか感じなくなる)。ちなみに、キャロライン・ラムについては、劇作家のロバート・ボルトが映画化していて、リチャード・チェンバレンがバイロンを演じている。日本では未DVD化作品なので、いづれソフト化してほしい。
これを読んで、俺はもっと詳しいことを知りたくなったが、ノーマン・メイラーやイーディス・ウォートンの伝記が翻訳されることはないんだろうなぁ。メイラーの生涯とか絶対に面白いはずなんだが。
オールタイム・ベストが好きという悪癖
年末になると、様々なメディアで、「今年の収穫」といったような年間ベストを決める企画が行われる。自分はそういう場で意見を求められる人がめちゃくちゃ羨ましいと思っている。なぜならそれは世間から「目利き」としてのお墨付きをもらっているようなものだから。自分が気に入ったものを数行程度の文章と共に発表するだけでギャラが貰えるなんて、夢みたいな話だ。
といっても、俺は新刊本を読む習慣がないので、一兆分の一の確率でそんな依頼が来たとしても、答えることはできない。
俺が本当に答えたいのはオールタイム・ベストである。
俺はこれまでに、ブログでいくつものオールタイム・ベスト特集を紹介してきた。理由の一つとしては、ブログのアクセス数稼ぎのため。なにしろ俺のブログは数年間、1日のアクセス数が3人~5人という驚異的な数字を叩き出していたので、どうやったら(そこまで手間をかけずに)人気のあるコンテンツを作れるか、ということを思案していた時、「有名人らのオールタイム・ベストなら、みんな興味あるんじゃないか?」と思いつき、載せ始めた(結果、アクセス数は1日10人までに激増した)。そもそもそれを思いついたのも、元々他人のオールタイム・ベストを見るのが三度の飯より好きだったから。柳下毅一郎と町山智浩の対談集『ベスト・オブ・映画欠席裁判』に、「『キネ旬』『映芸』ベストテン大検証」という回があるが、その中でオールタイム・ベストを読むことの面白さについて次のように語っている。
ウェイン(町山智浩) (注:ベストテン企画について)「あー、この人やっぱりセンスいいな」とか、「コイツはバカだと思ってたけど、予想どおり背伸びした映画選んでやがるな」とか勝手なこと言いながら楽しむの。
ガース(柳下毅一郎) 好きな映画で人格を判断するわけね(笑)。
ウェイン 当ったり前じゃん! 三十そこいらのくせして小津とかゴダールばっかり選んでる奴とは飲みに行きたかねえもん!
ガース 利口だと思われたいからそういうの選ぶんだよね。
ウェイン そこだよ! 映画に限らず「オレはコレが好きだ!」って人に言うことは、誰でも「こういう人間だと思ってください」ってことになっちゃうじゃん。
つまり、オールタイム・ベストを答えるということは、非常に自意識に満ち満ちた営為なのである。なぜなら、町山の言う通り、それは他者の視線を意識して答えるものだからで、そういう意味ではナルシシスティックな営為だと言える。しかし、オールタイム・ベストは、私小説とかと違って、自分の言葉ではなく他人の権威を借りるものだから、そういうことを意識する人はそこまで多くないらしい。
そこで思い出したのが金井美恵子の『文章教室』で、この小説、様々な作家の文章が揶揄的に引用されていて、当時非常に恐れられたらしいが、ネタモトの一つとして、丸谷才一が選んだヨーロッパ映画ベストテンがある(初出は不明)。福武文庫版『文章教室』には、蓮實重彦による金井へのインタビューが巻末に載っており、そこで丸谷のベストテンについて次のように語り合っている。
──あのリストを見ますと誰でも丸谷先生は馬鹿だとわかる仕掛けになっていますが、先輩の同業者にそれをやっちゃっていいものでしょうか。
金井 そうでしょうか? このベストテンを読んで、「この現役作家はいい映画を選んでいる人なんですね」と心から言った人の方が多かったと思います。(略)
金井 ああいうベストテンを小説家や外国文学者は誰でも書きますね。でも、それを馬鹿だと考えているのは、私ではなくむしろ、蓮實先生ではございませんか(笑)。
──なるほど。しかし、現役作家というものは誰でもいざとなったらあの程度のベストテンしか組めない鈍感な人たちだということを読者に印象づけることは、文学にとっていいことなんでしょうか。それは文学の衰退につながりはしまいかと気をもんでしまいますが。
金井 そうですか。あるいはすでに衰退しているから、ああいったベストテンが組まれることになるのかもしれませんけど。それに、ああいうベストテンを組む人は、映画は衰退していると考えていることは確かですね。秀れた作家であることを自認する作家はこういうベストテンを選んではいけない、という意図を持って書いたわけですから、実は文学を〈活性化〉させることが目的でした。(略)
この後、金井は蓮實に対し「ベストテンについて、ずいぶんこだわっていらっしゃるようですね」と言っているが、蓮實といえば映画芸術での年間ベストに始まり、あらゆる媒体でベストテンを選んできた人で、逆に金井の方はそもそもそういう行為自体を馬鹿にしている感じがあるから、少し興奮してしまったのかもしれない。俺は金井がベストテン的な企画に参加しているのをまだ見たことがない(一度ぐらいはあるかもしれないが)。
繰り返しになるが、オールタイム・ベストを選ぶということは、ナルシシズムの極みである。Twitterをやっていると、「#名刺代わりの小説10選」みたいなツイートがたまに流れてくるが、自分は一度もそれに乗っかったことがない。頼まれてもいないのに、そういうことをやるのは恥ずかしいと思っているからだ(Spotifyのプレイリストを公開したことはあるけど)。しかし、自分のオールタイム・ベストを開陳したいという露出狂的願望は人一倍持っている。なので、どこかの雑誌でオールタイム・ベスト企画が行われた時、そこによばれるような偉い人になりたいと思っている。それが叶ったら、この世に思い残すことは何一つなくいつでも死んでいいという気持ちでいる。あ、別に、ブルータスの『危険な読書』みたいな、あるテーマに絞った企画でもいいです。
余談になるが、かつてスーパーエディターと名乗り文壇の一部で嵐を巻き起こした安原顕という編集者がいて、彼ほどオールタイム・ベスト的な企画を乱発した人もいないのではないだろうか。元々は、文芸誌から女性誌に移ったことで始めた企画だったが、それがかなり当たったため、中央公論社を辞め、『リテレール』という雑誌の責任者になってからも、しつこくやり続けた。俺もブログで何度か紹介した。さすがにやりすぎたせいで、途中から新鮮さはだいぶ失われていたが(執筆陣もだいたい同じだった)、時代の空気を味わうという意味でも、一度くらいのぞいてみて損はないだろう。
芥川賞をとれなくて発狂した人
ってブログに小説をあげ、誰にも読まれていないにも関わらず、わざわざ自費出版までした私のことではないです。私はまだ発狂していません。自意識肥大、発狂寸前、入院秒読み、人生9回裏2アウト、といったところです。世界に忘れられたアラサーとして今日も一所懸命に生きております。私は正常です。信じてください!
が、マジな話、世の中には作家を目指している途中で本当に狂ってしまう人もいるんだよな。
橋爪健の『文壇残酷物語』は、菊池寛や岡本かの子、有島武郎といった有名作家の裏側を、本人が直接見知ったことや、本、伝聞などをもとにして、いくぶん小説風に書き上げたもの。大正・昭和初期の作家を扱っているのだが、この辺は様々な人の手によって掘りつくされているので、ある程度文学史に詳しい人には、橋爪の本に新鮮味を感じることはないだろう。
また、「文壇残酷物語」というタイトルだが、取り扱われている作家が大物かつ作品も評価されている人ばかりで、読んでいて文壇の残酷さを感じるということがさほどなかった。その点、高見順の『昭和文学盛衰史』や、窪田精の『文学運動のなかで』なんかは消えた作家の名前が大量に出てくるので、文壇で長く生き延びることの大変さを感じさせられる。
が、『文壇残酷物語』で、マジに「残酷や……」と絶句してしまうのが、「芥川賞」の章で紹介されている来井麟児(くるいりんじ)のケースである。
来井は作家志望の男で、友人がいないため同人誌には参加せず、個人雑誌を作って作品を発表していたが、岩手の家を売る羽目になり、東京に出るも病気となりホームレス生活を始めた。持ち物は風呂敷包みに入った原稿と雑誌だけ。その頃、太宰治が第一回芥川賞に落選し、川端の選評に怒り狂っていたが、来井も太宰同様芥川賞を喉から手が出るほど欲しがっており、真夜中になると「芥川賞! 畜生、芥川賞!」と大声で寝言を言い、周りに迷惑がられていたという(ちなみに、芥川賞は第三回までは、一般からの原稿募集もしていた)。そのため彼は「芥川賞亡者」と呼ばれていた。橋爪は、雑誌の依頼で「ノアの方舟」という救世軍によって運営されていた浮浪者収容施設(文字通り船の中で寝泊まりする)を訪れた際、たまたま来井と知り合ったのだ。ちなみに、ペンネームの「麟児」は、二十七歳で狂死した作家、富ノ沢麟太郎にあやかったという。
橋爪が、「君も芥川賞をねらって……?」と質問すると、
まあ、わっしが、世に出られる道は、それしかないんです。しかし、わっしみたいな友人も何もない孤独な人間は、同人雑誌にも入っていないし、発表機関も、ないからね。苦労して個人雑誌を出したのも、そのためさ。まあ、今に見ていて下さい。体さえ、よくなったら……
泣けるなあ。自分も文学をやっている友人が一人もいないし、誘われたこともないので、同人活動というのを一度もしたことがない。文フリに客として行ったこともない。今はネットがあるから来井みたいに「発表機関がない」ということはないと思う人もいるかもしれないが、結局読まれない限り存在していないのと同じである。なので、自分もわざわざブログに書いたことを数万かけて何十冊か製本し、「どうですか!」と方々にアプローチをかけているのだが、結果については聞かないでください。
余談だが、芥川賞には、石原慎太郎以前まったく注目されていなかったというような逆神話があり、それは石原より前に受賞した作家たちどころか創設者である菊池寛本人も「新聞がとりあげてくれない」と書いたぐらいなのだけれど、実際は賞の制定を発表した時から大新聞が取り上げ、来井のような文学志望者たちの目標となるぐらいには権威・知名度があった。
戦後、来井は「精神分裂病」の疑いで松沢病院に入院し、他の患者と殴り合いの喧嘩をしている最中心臓マヒで死んだ。元々、そういう気があったようで、以前橋爪に見せた小説も、「全体として支離メツレツで、まるで狂人のうわ言みたいな作だった」らしく、また、戦時中は親戚の手で監禁されていたようだ。
だが、その狂気の最終的な引き金となったのが、安部公房の芥川賞受賞作『壁』である。敗戦後、靴磨きをしながら生計を立てていた来井は、同じ職業の文学好きと結婚し、子供まで作った。芥川賞に対しては軽蔑的なスタンスをとり、注目こそしていたが、かつてのような「芥川賞亡者」ではなくなっていた。そこに現れたのが『壁』である。橋爪は来井の妻から次のような手紙を受け取った。
──主人は安部さんの『壁』を読んでから、急に様子がおかしくなり、また芥川賞のことばかりいうようになりました。主人はあの作品がとても好きになって、ああいう作品が芥川賞に通るなら、おれも一つやってやるぞと、毎晩徹夜で原稿をかきだしたのです。それが少しもモノにならず、ときどき変なことを口走ったり、とつぜん狂暴になったりして様子がへんなので、医師に診察してもらいましたら、精神分裂病が相当すすんでいるというので、数日前、松沢病院に入院させてもらいました。(後略)
安部はこのエピソードを知っていたのだろうか。『文壇残酷物語』は講談社から出ているぐらいなので、知っていてもおかしくない。もし知っていたのなら、かなり喜んだんじゃないか。それだけ自分の小説が他人の精神に影響を及ぼしたわけで、ある意味一番の愛読者だ。
いまではすっかりセブンイレブンのテーマソングとなってしまったタイマーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」だが、あれの「ずっと夢を見て安心してた」という個所を聴くと、その通りだなあと強く頷いてしまう。「夢」を見ている時が一番可能性に溢れている。だから、気持ちが良い。しかし、それを実行に移そうとするとたちまちのうちに、実力、運、コネ、その他もろもろの現実にぶつかり、来井みたいに発狂したりする。けれども、動きさなければ何も起こらないわけで、いつまでも安心してるわけにはいかないのだけれど、物事はそう簡単にいきませんわな(by 現在進行形で拒絶されている男)。
第二芸術としてのアフォリズム
俺は文芸の様式の中でも、アフォリズムや逆説といったものが嫌いだ。具体例を挙げると、アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』、芥川龍之介『侏儒の言葉』、三島由紀夫『不道徳教育講座』、シオランなど。昔、桑原武夫が俳句について「小説や近代劇と同じやうにこれにも『藝術』といふ言葉を用ひるのは言葉の亂用ではなからうか」と書き、「しいて藝術の名を要求するならば、私は俳句を『第二藝術』と呼んで、他と區別するがよいと思ふ」として、大きな議論を巻き起こしたが、俺の上記の作品に対する感想もそれと同じである。だから、筒井康隆が70近くにもなって『筒井版 悪魔の辞典』を出した時は、「あなたそういうレベルの作家じゃないでしょ」と逆に文句を言いたくなった。高校の時『悪魔の辞典』を面白がっている同級生がいたが、結局のところその程度のものでしかないというか、大人が真面目に読むものではないと思う。
三島由紀夫はラディゲやオスカー・ワイルドの影響から、文章にアフォリズムや逆説を意識的に組み込んだ作家だ。三島の本を何冊か読んでその仕組みに気づくと、「常識をさかさまにしてるだけじゃないか」と苛立つことも多い。それが一番上手くいったのが『近代能楽集』で、ある意味「上手すぎる」と感じるほど。逆に、一番露骨でくだらないと思われるのが『不道徳教育講座』。あえてショックを与えようとする見出しからして、昨今ネット上で跋扈するバズ狙いの挑発的記事に似て、不快ですらある。
『悪魔の辞典』や『不道徳教育講座』などは、冗談の一種として受け止められるような作りではあるが、問題はシオランである。シオランに関しては本気で評価する人間が少なくない。そういう人たちはシオランの本を読んで「元気が出る」という。島田雅彦が浅田彰とニーチェについて対談した時、その冒頭で「いわゆる肉体の疲れとしての疲労ではなく、精神的疲労というか、自分の思考が余りうまく回転しなくて何となく疲れているような状態の時があり、その時にニーチェがスーッと入ってくるんです。一種励まされるという感じがあるんですよ」と語っていたが、それと同じようなことだろう。つまり、シオランやニーチェというのは、やや知的でネガティブな人間のための自己啓発らしいのだ。
俺はシオランに対する嫌悪をもう少し掘り下げるべく、パトリス・ボロンの『異端者シオラン』という本を読んでみた。ボロンはジャーナリストで、晩年のシオランと知り合いでもあった。
『異端者シオラン』の序論では、世間では人間嫌いと思われているシオランが、実はそれなりの社交性を有していたと好意的に語られていて(そういうところは、わが国の中島義道を思い出したりもした*1)、また、無礼な真似をされても怒ったりしなかったらしい。シオランの人生全体を見渡しても、22歳にして処女作を出版し文壇から認められ、31歳の時には生涯の伴侶を見つけ、フランス語で書いた著作はプルーストの原稿を蹴り飛ばしたガリマール書店から出て、定職に就いたのは1年だけなのになぜか生活には困った様子はなく(若い頃は奨学金を貰っていたが、その後はベストセラーを出したわけでもないのにどうしていたのだろうか)、84歳まで生き抜くといった感じで、結構恵まれた生活を送ったように思えるのだが、著作からそういう雰囲気を感じとることはできない。シオランのペシミズムとは、生活からではなく、机の上から生み出されたものなのだろうか。
『異端者シオラン』を読み進めていく中で、シオランひいてはアフォリズムそのものに対する違和感を最も分かりやすくしてくれたのが、次のような文章だった。
彼は賛否を同時に提示し、自分の内奥の選択を、そしてそれ以上に、読者がこの文章から導きだすかも知れぬ解釈を未決定のままにしておく。(略)なるほどシオランは真理を提示する。だが、真理に含みをもたせ、曇らせ、個人的な、相対的な真理として提示するのである。
この態度を過不足なく表現するのがアフォリズムである。けだし、アフォリズム以外のどんな形式によって、あの矛盾した運動を──真理を立証しながらも、その真理をつねに破壊し抹殺し、にもかかわらずそれを消しさらず、その存在と効力とを保ちつづける運動を説明することができようか。断定的であると同時に不確かで、普遍的であると同時に主観的なものとして、こうしてアフォリズムは、絶えずみずからの限界を探求し、思考の行為と区別がつかず、その過程と等しく、その固有の運動の報告にほかならない思想、シオランのそれのような思想にとっては、理想の表現形式、唯一可能な表現形式であるように思われる。(太字は原文ママ)
なるほど、俺がアフォリズム嫌いなのは、そこに無責任さを感じるからだ(実際、ボロンはアフォリズムについて「断定しながら、その断定への責任を負おうとはしない思考」と書いている)。ボロンはシオランの著作には矛盾が多いことを指摘していて、人間だから一つや二つ矛盾はあるかもしれないが、シオランの場合、自身の矛盾に対し開き直っているようで、不誠実だと思う。しかも、思考の過程や根拠を示さないのだから、ほとんど何も言っていないのと変わりがない。最初から自分の発言に責任をとるつもりがないから、そういうことができるのだろう。もし、世の中がシオランのような人間ばかりだったら、物事は何も決まらないはずだ。逆に言えば、そういう態度で生きてこれたシオランというのは、非常に特権的な立場にあったわけで、日々何かしらの決定を迫られる会社員としては羨ましい限りである。
アフォリズムを得意とした作家の顔ぶれを見ると、三島にしても芥川にしてもオスカー・ワイルドにしても、社交的な人間が多い。芥川は死後、「芥川君にはズバズバ物を云う勇気がなかったと思う」と評されたぐらいだが(小島政二郎『芥川龍之介』)、そういう人間でも躊躇なく発表できるのがアフォリズムということで、つまり真剣勝負には決してならないという確信が書く側にも読む側にもあって、だからこそ一見きついことを言っていても社交が成り立つのである。
シオランの公開されている写真は気難しい顔をしたものが多く、ボランはそれについて狙ってやったものではないと強調しているが、社会的に有名になる作家というのは芸能人に似て、自分がどう見られているかということについても敏感だから、シオランのしかめ面もポーズだと考えている。ボランが言うように社交的な人間だったのなら、なおさらそういうことができるだろう。シオランについて知れば知るほど「無害な獣」といった印象を持つ。
ある種の読者がシオランを読んで励まされることに関して特に言うことはないが、シオラン的なものを他の芸術と同格にすることはできない、ということは主張したい。
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