諸君! 2007年10月号 私の血となり、肉となったこの三冊
『諸君!』2007年10月号では、「読書の季節の到来にちなみ」、「人格・精神形成に大きな影響を与えた本」、「人生の見方、考え方に影響を与えた本」をテーマにし、著名人108名にアンケートを行っている。以下、気になったものを挙げてみる(出版社・訳者などは省略)。
トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』
吉田健一『ヨオロッパの世紀末』
『小川未明童話集』
五味川純平『人間の条件』
ラヌッチョ・ビアンキ・バンディネッリ『古典美術の歴史性』
つかこうへい『小説熱海殺人事件』
谷沢永一『紙つぶて(全)』
ミスター高橋『流血の魔術 最強の演技』
(3)オルテガ『大衆の反逆』
小林秀雄『近代絵画』
サルトル『殉教と反抗』
グリエルモ・フェレーロ『権力論』
・『聖書物語』『ギリシア神話物語』
・『石川啄木詩集』
・森崎和江『まっくら』
ホイットマン『草の葉』
ヘンリー・ミラー『北回帰線』
竹田青嗣『近代哲学再考』
ジル&ファニー・ドゥルーズ『情動の思考──ロレンス『アポカリプス』を読む』
足立巻一『やちまた』
(一)慈圓大僧正『愚管抄』
(二)新井白石『西洋紀聞』
(三)竹山道雄『昭和の精神史』
石川淳『至福千年』
開高健『夏の闇』
藤枝静男『空気頭』
『プルーターク英雄伝』
ウィリアム・ジェームズ『宗教経験の諸相』
セシル・スコット・フォレスター「ホーンブロワーシリーズ」
中島文雄『英語の常識』
デュマ『三銃士』
一、澤田謙『プルーターク英雄伝』
長谷川伸『夜もすがら検校』
橋川文三「昭和超国家主義の諸相」(『昭和ナショナリズムの諸相』所収)
『西條八十歌集』
1、吉田松陰『講孟余話』
2、キュルーゲン『一老人の幼時の追憶』
3、ブチャー『ギリシア精神の様相』
サルトル『分別ざかり』
クレジオ『愛する大地』
『聖書』
松井孝典『地球・宇宙・そして人間』
ルソー『人間不平等起源論』
アレント『革命について』
ウエスト『マスク作戦』
コッチ『ダブル・ライヴズ』
西木正明
西岡一雄・海野治良・諏訪多栄蔵『登山技術と用具』
トール・ヘイエルダール『コン・ティキ号探検記』
トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』
2、伊丹十三『女たちよ!』
3、萩原朔太郎『青猫』
楠山正雄訳『少年ルミと母親』
『鈴木貫太郎自伝』
エルヴィン・シュレーディンガー『生命とは何か』
清水博『生命を捉えなおす』
橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』
獅子文六『大番』
小林信彦『東京のロビンソン・クルーソー』
金子光晴『ねむれ巴里』
(3)ロバート・ボルト『すべての季節の男──わが命つきるとも』(『世界文学全集』別巻2所収)
三木清『人生論ノート』
①西里龍夫『革命の上海で──ある日本人中国共産党員の記録』
(1)星新一『ようこそ地球さん』
(2)永井均『〈子ども〉のための哲学』
(3)アラン・ボブソン『夢の科学』
斎藤貴男『機会不平等』
ポリー・トインビー『ハードワーク』
菊池英博『実感なき景気回復に潜む金融恐慌の罠』
①佐々木邦『凡人伝』
②パスカル『パンセ』
③アレキシス・カレル『人間──この未知なるもの』
一、三宅周太郎『演劇巡礼』
一、加藤周一『政治と文学』
一、レコード常磐津『角兵衛』
渡邊恒雄
出隆『哲学以前』
カント『実践理性批判』
保守系の雑誌なので当然人選もそちらに偏っている。学者は外交関係が多いか。また、普段読書系のアンケートには無縁な、実業家や政治家がいるのも特徴。
三冊しか選べないわりには結構被っている本もあって、『聖書』などの古典は特に不思議ではないが、島崎藤村『夜明け前』(加地伸之、佐瀬昌盛)、森鷗外『渋江抽斎』(田原総一朗、徳岡考夫、林望)は意外だった。
また、三木清、林達夫などは時代的なものを感じさせる。竹山道雄の『昭和の精神史』という本を俺は知らなかったが、小堀桂一郎と八木秀次が選んでいて、これも時代的なものなのだろうか。
渡邊恒雄の選書は知らない人には驚きかもしれないが、渡邊は開成中学時代、文学を諦め哲学に転向するという事があって、ショーペンハウエルなどをよく読んでいた。軍隊に招集された時も、カントの『実践理性批判』とブレイクの詩集を持ち込んだりした。そうした読書遍歴は、『渡邊恒雄回顧録』に書いてある。
堀田善衛窃盗事件の真相?
以前、小谷野敦のブログで堀田善衛が窃盗で捕まったことを伝える新聞記事の引用を読んだ。
以来、そのことが記憶の片隅にあったのだが、先日、読売新聞で文化部の記者だった竹内良夫の『文壇のセンセイたち』という本を読んでいたら、その事件の詳細について書かれていた。
堀田さんは二十三日の夜、新潮社へ依頼された原稿を届けた。その日はその原稿のために、二度徹夜をして、疲れていた体で、その新潮社の記者と、新橋へ行って飲んだ。あまり寝ていないので、酔いはすぐ廻って、すっかり泥酔してしまった。新橋駅で記者と別れて、逗子へ帰るため、横須賀線に乗りかえようと、品川駅で降りた。あまりの泥酔で、駅の荷物運送車に乗りこんでしまい、無意識で傍らの荷札を手でむしっていた。ハッと気がつくと、それは重要な他人の荷物であり、行先を明記した荷札でもあった。堀田氏は慌てて、さてどうしようかと、とにかく駅員に相談してみようと、その貨物(トランク)を持ちあげて立った。その瞬間を前記の斎藤荷物手に見つかってしまった。酔ってはいたいし、うまく弁解も説明もつかず、斎藤さんにすっかり、かっぱらいと誤解されて、鉄道公安官に引渡されてしまったのだ。そこで公安官から質問されて答えると、すっかり単なる失敗であり、『犯意なきものと認む』という大変大げさな法律用語を調書に書かれた。が、矢張り規則通り、丸の内署へ廻されて(注:新聞記事では水上署)、検事の取調をさらに受けた。検事は堀田氏と話合ってみると、これは全くナンセンスなものであることが判明、すぐ釈放ということになったのである。検事は「あまり深酔いしないように……」とかなんとか言って堀田さんの肩を叩いて幕。
堀田はこの頃仕事がほとんどなく貧乏だったため、高等学校に就職しようとしていたのだが、この記事のせいでフイになりそうだ、と竹内にこぼしている。堀田はこの事件の四ヶ月ほど前、読売新聞の外報部に臨時嘱託として一週間ほど勤めていて、その時の経験をもとに「広場の孤独」を書き、事件から三ヶ月後に芥川賞を受賞。一躍売れっ子となっていった。
この窃盗事件は無意識の所業だったとしても、絶対に言い逃れのできない「盗み」もある。栗原裕一郎の『〈盗作〉の文学史』によれば、堀田は「朝日新聞」に『19階日本横丁』という娯楽小説を連載していた時、森本忠夫のエッセイ『奇妙な惑星から来た商人──海外における日本人の評判』から、引き写しに近い行為をしたという。「堀田は森本から素材に使うことの了承を取り付けてはいた」が、「あまりに『素材』そのままではないか」ということで、当時「夕刊フジ」が取り上げたらしい。窃盗事件から22年後の出来事だ。しかし、盗作問題としてさほど盛り上がることはなかったようで、97年には朝日文芸文庫にも入っている。一応、単行本のあとがきと文芸文庫の解説を見てみたが、森本のことについては触れられていなかった。
作家の写真を読む②
以前、ブログで「作家の写真を読む」という記事を書いたことがある。作家を被写体にした写真集の紹介だ。今回はそれの続きを書こうと思う。俺がどういう写真を好んでいるかということについては、前回の記事を参考にしてほしい。
相田昭 『作家の周辺』
相田昭は著書に付されたプロフィールによれば、
1946年、長崎生まれ。法政大学在学中はアラスカ・キングピーク峰に遠征するなどアルピニストとして活躍。卒業後もTBS報道局でアルバイトをしながら登山を続け、山岳写真を手がけるようになる。1974年、写真家として独立。雑誌の仕事で作家や画家のポートレイトを撮り始め、人物写真に傾倒する。1983年、小川国夫氏の著作『彼の故郷』に感銘をうけ、小川氏を被写体に写真展「彼の故郷」を開く。以来、今日まで数多くの作家や詩人、画家などと交流、その人間像に迫る写真を撮り続けている。
本書には相田による、作家との出会いについて書いたエッセイも掲載されており、そこに司修が相田の「彼の故郷」展に寄せた推薦文も引用されているのだが、それによると相田は作家の写真に集中するため、それまでの仕事を全て断ったという。しかし、そのおかげで、貧困に陥り、妻からは離縁状をつきつけられたとか。
食えなくなった相田は郵便局でアルバイトを始めたらしいのだが、小島信夫との出会いは、その配達員としてだった。相田は書籍小包をあえてポストに入れず、直接本人に渡すことで、話をすることができた。その際、
気むずかしい人を撮る時はこの本を読みなさいと、D.カーネギーの『人を動かす』という本を紹介してくれた。そして他の作家の所へ行っても、小島の所へ行って来たなどと言わないことだよと忠告され、「作家はシットぶかいからね」と念を押された
その後、仕事で小島を撮ると、小島はその時のことを「被写体」というタイトルで書いたようだが、「言いたいことはしっかりと僕の口から言わせている所もあって、作家は怖いと思った」と相田は書いていて、これは小島が相田の発言を捏造したということだろうか。
『作家の顔 「文壇エピソード写真館」』
本書は、芥川賞・直木賞第100回を記念して文藝春秋より出版された。掲載されているのは芥川賞・直木賞に関係する作家たちの写真(受賞者だけではなく選考委員も含む)だが、単なる肖像写真ではなく、雑誌の企画で撮った物も多く掲載されておりそれが結構バラエティーに富んでいて面白い。また、文壇の冠婚葬祭担当と呼ばれた写真家の樋口進(元文藝春秋写真部長)のインタビューもあって、読み物としても充実している。ちなみに、樋口によると撮りやすかった作家は、永井荷風・今東光・柴田錬三郎だったらしい。
村上龍(芥川賞受賞直後の写真。中学時代にサッカーをやっていたことから、この写真が企画された。場所は上智大学のグラウンド)
子供連れの古井由吉
鉄アレイで体を鍛える大江健三郎と妻ゆかり
猫をカゴに乗せてサイクリングする大江健三郎
自動車のタイヤを交換する三島由紀夫(運転が下手だったため、目的地に着いたら家に電話するようにと妻に言われていた)
鉄棒をする三島由紀夫
「私の一日亭主」という企画で、深沢七郎の店で働く大庭みな子
『私はこれになりたかった 著名人46人が憧れた仕事』
前述の『作家の顔』を読んでいたら、三島由紀夫が白バイ隊員のコスプレをした写真が掲載されていて、キャプションには「"私はこれになりたかった"のグラビアで白バイ隊員に扮した三島さん」とあって、早速「私はこれになりたかった」について調べると、ずばり『私はこれになりたかった』と題された写真集がヤフオクで見つかった。
落札すると、この写真集非売品らしく、そのためAmazonなんかにはデータが登録されていない。発行日は2016年3月25日。どこで配られたものなのかはよくわからない。
「私はこれになりたかった」というのは、「昭和38年から39年の2年間、『週刊文春』のトップページで連載されていた人気グラビアページ」で、文字通り「各界著名人が実はなりたくてしかたがなかった職業」に扮したもの。
本書はその二年間の中からの抜粋で、残念ながら三島由紀夫のそれは載っていない(遺族の許可がとれなかったのか?)。作家で掲載されているのは、井上ひさし、遠藤周作、梶山季之、山口瞳、吉屋信子、瀬戸内晴美など。作家以外では、中曾根康弘や植村直己、黒柳徹子、渡辺貞夫などもいる。
渥美清(郵便屋)
中曾根康弘(金魚売り)
若尾文子(美容師)
遠藤周作(易者)
井上ひさし(泥棒)
石原慎太郎・坂本忠雄『昔は面白かったな』を読んでいたら、石原の次のような発言にぶつかった。
石原 新潮社が、三島さんの写真集を出したでしょ。あの中で三島さんらしくていい写真っていうのは、まだ役人の頃に役所にでかける途中、どこかの駅で電車を待っている写真なんですよ。とっても平易で、気取ってなくて。あの人、他の写真は意識しているんだよ。僕ね、昔、三島さんに「石原君、ひとつ忠言するけど、これから色々写真を撮られるだろうけど、雑誌に載る写真は自分で選ばなきゃダメだぞ」って言われたの。「どうしてですか?」って聞いたら、「編集者ってのはみんな作家になりこそなった劣等感を持ってる奴らだからね、一番悪い写真を載せるんだ」って(笑)。
石原が言っているのは1990年に出た『グラフィカ三島由紀夫』のことだろう。俺はその文庫版である『写真集 三島由紀夫 '25~'70』を図書館で借りてみたが、石原の言っている写真は見つからなかったが、それに近いものはあった。
大蔵省に勤めながら小説を書いている頃で、キャプションにも「疲れを漂わす」と書かれている。
石原の『三島由紀夫の日蝕』も確認すると、こちらには正しいことが書かれていた。ついでに、石原の『グラフィカ三島由紀夫』に対する感想も引用しておこう。
妙な言い方だが、最近新潮社からもらった三島氏の写真集を眺めると、本来天才なるものは氏の写真のように、いかにも天才天才した顔はしていなかったのではないかと思われる。ランボオにしても、ラディゲにしても、ガロアや旧くはモーツァルトにしても、その肖像や写真の表情はもっとさり気ないもので眺めていてくたびれない。
他の作家なり誰ぞの写真と違って、三島氏のそれは眺め終わるといかにもくたびれる、というよりいささかうんざりさせられる。若い頃の写真だけは例外で自然だが、氏が世に出てその名声が確立された頃から写真には自意識がにじみだし、気負いがまざまざ露出して、それを無理と感じるか栄光の光彩ととるかは眺める者によるだろうが、私にはいかにもくたびれる見物だった。
あの写真集の中で私が一番好きだったのは、四谷見附付近で撮ったという、まだ官吏時代の、役所の仕事と家へ帰ってからの執筆との二重生活の疲れを漂わす二十代前半の写真で、それには名声を獲得する前の、人生に対する不安を秘めながらもある一途さを感じさせる孤独な青年が写し出されている。その写真には、不確定な青春のはかなさとそれ故の美しさがある。
石原が「電車」と言ったのは、作家と役人の二重生活に疲労した三島が、駅のホームから転落したというエピソードとごっちゃになったためだろう。ちなみに、上の写真以外で石原が最も好きだという三島の写真は、「市ヶ谷で死ぬ直前に、総監を縛った後、切腹するための準備をみんなに指図しているところを、自衛隊の写真班が脚立を立てて欄干の上から盗み撮りした」ものらしい(『昔は面白かったな』では「欄干」となっているが「欄間」の間違いだろう)。三島は写真を撮られていることにまったく気づかず、それゆえ「自意識」が消え、「雄々しくもあり」、「初めて美しくも」あった。石原はその写真を友人の佐々淳行(防衛施設庁長官)に見せてもらったというから、門外不出のものなのだろう。
石原慎太郎 坂本忠雄 『昔は面白かったな 回想の文壇交友録』
石原慎太郎が文壇について書いたもので、俺がまず思い出すのは、『わが人生の時の人々』に収められた「水上勉を泣かした小林秀雄」で、これは酒席で酒乱の小林秀雄に絡まれていた水上勉を、小林を論破するという形で助け出したら、逆に小林から気に入られたというエピソードを書いたものだが、酒を飲まない俺としては余計に小林の人間性が嫌いになった。
他には、『三島由紀夫の日蝕』という、三島由紀夫との思い出を軸にした三島論があり、これも面白かった。
そういうことがあったので、『昔は面白かったな』もそれなりに期待して読んでみたのだが、部分部分で興味深いところはあるものの、全体としては物足りなかった。というのも、石原ほどのキャリアを持っている作家なら、自分の人生についてあらゆるところで書き喋っているから、それらをある程度追っていたゴシップ好きの自分(もちろん石原の膨大な著作からすると何十分の一でしかないが)としては、既に知っているような話が多かったからだ(無論、上にあげた小林秀雄の話も載っている)。
また、石原が「僕の話、もうしなくていいよ(笑)」ということを三回ぐらい言うほどに、対談相手である『新潮』の元編集長坂本忠雄がインタビュアーに徹して石原にばかり喋らせていて、文壇の裏側を知悉しているはずの坂本自身がもっと積極的に話せば、それこそ「文壇交友録」になったのではないだろうか。
とりあえず、『昔は面白かったな』から、自分が気になったところを取り上げ、解説を加えてみようと思う。
坂本 僕は石原さんから聞いたんだけど、川端さんは三島さんのこと嫌いだったんじゃないかって。
石原 嫌いだったと思うね。敬遠してたんだよね。付きまとわれて。
坂本 三島さんのほうが付きまとっていた?
石原 そうだね。
坂本 仲人だしね。
石原 盾の会の閲兵式を国立劇場の上でやる時、川端さんに祝辞を述べて下さいって言ったら、「嫌です、絶対に嫌です」って断られたんだって。それを三島さんが愚痴ってさ。僕は村松剛と仲良かったんだ。剛さんと何度か外国旅行もしたんだけど、剛さんが「慎ちゃん、三島がこの頃死にたがって死にたがってしょうがないんだ。本当心配なんだよ」って。その後、川端さんも意地悪なんだよな。頼みに行った時、「嫌です、絶対に嫌です」って二回言った。それで三島さんもショックを受けて、あの人を見損なったって言った。
この本以前に読んだ『この名作がわからない』の中で、小谷野敦が三島について「慕われた川端は迷惑したと思いますよ」と言っていたが、これでその裏付けとなった。三島の父親は、盾の会の件で川端を恨み、三島の死後『諸君!』で川端批判の文章を書き、川端を激怒させた(小谷野敦『川端康成伝』)。
坂本 (坂本氏「文学の不易流行」(「新潮、一九八八」)を取り出して)久しぶりに「新潮創刊千号記念号」の座談会を読んだんですけど、これ、面白かったですよね。
石原 うん、面白かった。最近また読んでいる。
坂本 僕が司会したんだけど。
坂本 これ、傑作ですよ。自分がやって言うのも変だけど。
石原 この時なぜか大江がね、「石原さんのヨットは人生的な意味が分かるけど、開高さんの釣りは怪しいな」って言ったんだよ。なんであんなこと言ったんだろう。
坂本 一種のジェラシーかも知れないね。
「文学の不易流行」は、江藤と大江が、『群像』で行われた対談「現代をどう生きるか」(1968年1月号)以来、久方ぶりに公の場で同席したという意味で珍しいものとなっている。『群像』が発売される前、江藤、大江の順で、『三田文学』に秋山駿によるインタビューが掲載されたが(秋山はその時未だ二人の対談を読んでいなかった)、そこで大江は、「江藤さんの批評を必要としない」、「江藤さんとの対談はもうごめんこうむるつもりです」とまで言い、江藤の『小林秀雄』が読売文学賞に落選した時、彼の父が選考委員である佐藤春夫に電話で抗議したということまで暴露した。『群像』と『三田文学』での発言から、二人は決定的に訣別したと言われていたから、この座談会はある種の驚きを呼んだ。
しかし、仲直りしたということではなく、座談会から二ヶ月後の『新潮』(1988年7月号)に掲載された第一回三島由紀夫賞(大江と江藤は選考委員だった)の選評で大江は「「天皇」という一語が発せられるだけで、座談会そのものが消滅してしまう、埋めようのない淵が、江藤と僕の間に開いているのを、僕は認めていた。おそらく江藤も同じで、司会役としてそれを避けたのだろう」と書き、依然として対立状態であったことを明らかにしている。ちなみに、石原の天皇観については『ユリイカ』の石原慎太郎特集で猪瀬直樹が次のように言っている。
(注:三島・石原の対談「守るべきものの価値──われわれは何を選択するか」のなかで)どちらも日本の風土に根ざすものを言いながら、三島は三種の神器=天皇だと言っていて、石原は天皇じゃないと言っている。不思議なことに、ぜんぜん違う。僕も『ミカドの肖像』のなかで西洋人に対して三島由紀夫的な説明をしているんですね。ヨーロッパはピラミッド型の組織だけれど、東京は中心が皇居というブラックホールにもかかわらず、同じ近代を達成しているんだと。ところが、石原さんは天皇はいらないと言っている。東京都の儀式なんかで「君が代」斉唱のときに、石原さんの横に立っていたら、石原さんは「君が代」と言っていないんだよ。「われらが代」って言っているんだ(笑)。おもしろいよね。「君」じゃないんだ。「君」は天皇だから、天皇なんて負けた戦争の責任者だろうくらいに思っているんですよ。僕にもそういうニュアンスのことをチラッと言ったこともある。僕は『ミカドの肖像』も書いているから、一度、なにかの雑誌で天皇制について石原さんと対談しないかと打診されたことがあったんだけど、石原さんは「天皇興味ねえ」ってそんな反応で、けっきょくその対談はやらなかった。「変人・石原慎太郎」
座談会はそういう爆弾を抱えた状態で行われたため、つっこんだ話はなく、当時運輸大臣だった石原を「大臣、大臣」と適宜いじることで、無理やり平穏なムードを演出しようとしている。
そんな中で、話題が開高の魚釣りに及んだ際、まず江藤が「開高の魚釣りというのは、僕は素晴らしいと思う傍らね、なんかちょっと、哀しい感じもあるんだ」と言い、
大江 開高さんのおもしろい点はね、釣りの話でね、いつも一番大切なことはとっていて、釣り旅行記には書かないでおいてるという感じが何時もするんだがな。
開高 違う。違う。違う。
石原 あなたもそう思う? そう思うだろう。僕、そう思うんだなあ。ジェニュインなものがないんだな(笑)。
開高 違うんだ。ちょっと違うんだ。
大江 今、整理するからね、僕たちは同じことを感じているわけだ。石原は、開高さんの作品に釣りの中の本当のジェニュインなものがないと感じるわけね。石原は、自分の小説の中で、本当にジェニュインなものだけを釣ろうとしていて、魚なんかは釣ろうとしていない。
開高 ああ。
大江 僕のいっていることは、彼と違ってね、ここにあるはずの大切なものは別の時、小説を書く時にとっておいていると。
「ヨット」という単語は出てこないのだが、石原が上で言っていたのはこのあたりだろうか。これから一年半後ぐらいに開高は死ぬのだが、その際『新潮』で大江と石原による追悼対談「現代を生きる作家」(1990年2月号)が組まれ、より率直に開高について語っている。例えば、大江が石原と開高の小説の違いを比較し、それを受けての石原の発言。
石原 僕は前に、あなたと開高さんと江藤淳さんと四人で「新潮」千号記念号の座談会をしたときに、大江さんが「開高さんの釣りの文章は石原さんの小説の中のとちょっと違う」と言ったでしょう。それについて僕がどうのこうのというつもりはないけど、その言葉を思い出したのね。釣りなら釣りに本当に情熱を燃やし、熱中し集中するのならいいのだけれども、何か作家の実在というものに絡んでの燃焼というよりも、あの人は割とそれに関するペダントリーについて情熱的で、いつもいろいろ説教が出てくるのだな。『珠玉』も定年前のサッカー選手のフットワークみたいで、ちょっと重いんだな。『夏の闇』というのは僕もとても評価した小説だけれども、これだって彼のとてもいい短編に比べると、やや饒舌というのか、ペダントリーがあってね。
石原も大江も、開高が「俗物」だったということを言いたいのだろう。石原は「本ものグルメは、いかにもなれたという様子を見せないし、第一、しゃべらないよ。僕は、彼の宝石や釣りや、猟や美酒美食のお師匠さんになる人をよく知っているけど、彼はいつもにこにこ笑って黙っているからこそ、大通で、名人なんだな」とも語っている。大江は開高が三島の次の作家を狙っていたと指摘しているが、確かに二人とも、知識人でありつつ、若者受けする文章も書く、という硬軟併せ持つタイプであった。そして二人とも、「こういう風に見られたい」と意識しながら行動する人間でもあった。
開高はある時期から現代文学の不振ということを盛んに言い立て、金井美恵子からその身振りを揶揄されたり、石原からも新潮での座談会で「小言幸兵衛」と言われていたが、そういう大仰な感じが、すべてにおいて彼の行動をわざとらしく見せるのだろう。三島にしても開高にしてもそういうあざとい感じが文学の外にいる人間にも受ける要因となっていたのだろうが、そのおかげで、文壇からは嫌われ、文学賞には恵まれなかった。坂本によれば、そのことで開高はふて腐れ、「最後に「夏の闇」を書いた時もみんな傑作だと褒めたのに、受賞を断ってしまった」ということがあったらしい。『夏の闇』は「文学賞の世界」というサイトで確認する限り、3つの文学賞の候補に上げられ、全て落選しているが、その中のどれかということだろうか。
ちなみに、江藤にも「俗物」的なところは多分にあって、江藤と大江がまだ決裂していなかった頃、江藤・大江・石原でよく飯を食べにいったらしいが、「江藤はなぜか開高をあまり呼ばなかったな」と石原は坂本に言っていて、それは恐らく同族嫌悪によるものだと思われる。大江と石原の追悼対談が載った『新潮』には、江藤による追悼文も掲載されているが、最後の「君がさっさと先に逝ってしまったのだから、私もそろそろ締めくくりの支度をはじめなければならない」という文章は、江藤が自殺したことを知って読むと不気味である。しかし、それに続く「今はやすらかに、うまい酒でも飲みながら待っていてくれたまえ」という文のセンチメンタルな臭みには、辟易するが。
江藤は石原文学の理解者としても知られていたが、石原本人は文筆家としての江藤を認めていなかったようで、『昔は面白かったな』では次のように言っている。
石原 (前略)江藤の文体は僕は嫌いなんだよ。「海は甦える」なんか、非常に説教がましくて、押し付けがましくて。彼の解釈とか理解には感謝はしたけど、文章は固くて説教がましかったね。でも、「幼年時代」はとってもこなれて、奥さんを含めた母親に対する本当の思慕が表れていて、いい文章だったね。
石原は江藤が「およそ非肉体的な人間だった」とも喋っているが、三島といい江藤といい、運動音痴から来るコンプレックスによって、石原に接近するということがあるようだ。石原文学を認めることが、コンプレックスの解消に繋がるかのように。石原本人も、その二人について「肉体的な条件から見て、僕に対して羨みみたいのがあったんでしょう」と言っている。「羨み」ということでは、伊丹十三と大江の関係もそれに近い気がする。運動以外では、江藤、三島共に、政治と関わることに関心を持ち、晩年の三島は先駆けて議員となった石原に変な絡み方をした。
三島と開高が文壇では不遇だったことは少し前に書いたが、石原もそれは同じで、『化石の森』が新潮の日本文学大賞の候補になった時は、同じく候補に挙がっていた福田恆存が劇団を抱えていて大変だということで、福田の 『総統いまだ死せず』が受賞した(河上徹太郎の『有愁日記』も同時受賞)。それを主導したのは、選考委員だった大岡昇平と中村光夫らしい。といっても、大岡に対してはそこまで憤ってはおらず、文学賞の選考に関して、石原が本当に嫌っていたのは吉行淳之介だ。
江藤は、第19回谷崎潤一郎賞の選評をもとに、吉行が文壇政治を行っていることを『自由と禁忌』で批判し、「文壇の人事担当常務」と呼んだ。その時の谷崎賞を受賞したのは古井由吉『槿』で、落選したのは中上健次の『地の果て 至上の時』だったが、中上と吉行は友好関係にあり、江藤と対談した時も、「(注:吉行について)僕は江藤さんのように、文壇の人事係とか、そんなふうに露骨には思わない」と擁護している(「今、言葉は生きているか」)。谷崎賞で中上を落とし続けたのは、丸谷才一だと言われている*1。
石原と吉行が激突したのは、『文學界』(1989年3月号)に掲載された、「賞ハ世ニツレ 芥川賞の54年に見る「昭和」の世相と文壇」と題された芥川賞を巡る座談会上でだ。出席者は、芝木好子・吉行淳之介・石原慎太郎・大庭みな子・池田満寿夫・池澤夏樹。昭和10年代から60年代まで10年ずつに分けて、その中で芥川賞を受賞した作家の中から代表者を一人ずつ選んでいる。石原と吉行の文壇政治をめぐるやり取りは以下の通り。
石原 やっぱり芥川賞は新人の賞ですよ。直木賞とそこが違うんだよ。直木賞はちょっとポリティカルなところがあるし、唯一芥川賞がフェアな賞だからいいんだよ。あとはアンフェアだよ、他の文学賞なんておおかた、芸術院と同じだ。ちゃちな政治がらみで本当に奇々怪々だもの。やっぱり芥川賞はフェアである限り続くでしょう。続いてもらいたい。
池田 それはフェアだと思う。ぼくに賞をくれたんだもの。
吉行 あのね、意地でフェアなの。
石原 しがらみがないからな。芥川賞をもらったあと五年、十年、みんな紙一重のところで闘ってるよ、それは。しかし、それから後の問題は、言わないけどいろんなことがあるよ。やっぱり総じて芥川賞以後のプロセスの賞にはいろんな問題がある。
吉行 そんなの、ないよ。
石原 ある。
吉行 ない。
石原 ある。あんた、芸術院なんてところにいて、そんなこといってたって通じないよ。
吉行 まあいい、あとでやろう。
吉行 芥川賞は公平だけど、情実がないといったほうがもっと正しい。
石原 ほかの賞は情実があるな。いろいろあるぞ。
吉行 情実というより、なげやりなところが出ざるをえない場合があるんだよ。
石原 うまいこと言うな、やっぱり文士は、言い逃れがうまい。吉行さんは日本の文学を投げてるわけだな。
吉行 いや、ちょっと聞いてくれ。違う角度からわかりやすく言うから。
石原 あなたのような人は毅然としてもらいたいね。
吉行 (前略)ある作家が芥川賞候補になったとき、人を介して、委員にたいしてどうすればいいんですかとぼくに訊いてきた。その頃ぼくは賞を貰って数年目といったところでね、もしそういうことをしたら、入るものも落ちるよと言っておいた。
石原 なるほど(笑)。芸術院とは逆だよな。
吉行 それから、これは特に石原さんに聞いてもらいたいんだけど、既成作家が既成作家の作品を決めるのは嫌なんだ。だから、新人賞は勉強のために、また一種の義務感で引き受けるけど、あとのものは一切ノータッチにしようと思って、谷崎賞の委員は三年断った。ところが、やっぱり浮世の義理というのがあるね。どうしてもダメだね、引き受けさせられた。あとは芋づるだよ。
ちなみに、この時点で吉行が選考委員を務めていた文学賞は、芥川龍之介賞・泉鏡花文学賞・ 川端康成文学賞・中央公論新人賞・谷崎潤一郎賞・野間文芸賞・読売文学賞・柴田錬三郎賞+日本藝術院会員。文壇の主要な賞にはほぼ顔を出していて、文壇政治家と見られても仕方がないところはある。もし賞が欲しかったら、後輩作家は自ずと吉行批判を抑えざるをえないからだ。
上にピックアップしたやり取りだけでも、結構険悪だが、活字にした際、結構削られたらしい。『群像』(2018年3月号)で行われた西村賢太との対談は次のように述べている。
石原 (前略)そもそもは、文藝春秋で芥川賞の集まりがあってね、そのときに僕が吉行に「お前は芸術院の会員か」と聞いたら「そうだ」と言うので、「俺を芸術院の会員にしろよ」と言ったら、「だめだ。君なんかは我々は必要としていない」と言うから、「偉そうなことを言うな。じゃ、大江をしろ。江藤をしろ」と言ったら、「彼らも必要としていない」と言うから、「おまえの小説は必要とされていないから全然売れねえじゃないか。彼らのほうがよっぽど売れてる。俺だってたくさん本が売れてるぞ。おまえと違って必要とされるより売れてるんだよ」ということでけんかになったんですよ。当時の「文學界」の編集長に、「これはちゃんと載せろよ」と言ったけど、遠慮して載せなかったんだな。その後、エーゲ海の何とかという変な小説を書いたやつ、何と言ったっけ。
西村 池田満寿夫。
石原 あれが酔っぱらって入ってきてゴチャゴチャになって、険悪な雰囲気がおさまっちゃったんだよ。(後略)
藝術院のことについては、『en-taxi』(2014年冬号)で行われた、坪内祐三によるインタビューでもこんな風に言っている。
石原 芸術院ってのは良くないよ、本当に。税金の無駄だよ。芸術院の会員を選ぶときになると、元老みたいな審査員が京都にいっぱいいるから、古典芸術に関係ある連中は賄物を持ってそこをまわるんだ。ただ、相手が多くて普通はとても一日じゃまわりきれないんだけれども、その専門の運転手に頼むと一日でパッとまわってくれる。どうも人間の世界っていうのは皆そうで、どこもアンダーテーブルですよ。
坪内 十数年ぐらい前に『佐藤栄作日記』が公刊されましたけど、あれを読むと、文化勲章の候補が決まる時期になると必ず東郷青児や堀口大學が佐藤栄作のところを訪ねてきて、それを「俗物なり」みたいな感じで佐藤栄作は書いているんです。
石原 佐藤栄作はそこまで読み切ってるわけだ。
石原と吉行のその座談会後も続き、大江の勧めで書いた『わが人生の時の時』(1990年)が、吉行が選考委員を務めていた野間文芸賞の候補となったが、吉行が「こんなのは小説じゃない」と言って落としたらしい。野間文芸賞は候補作を発表していないのだが、1990年度の選考会では吉行が欠席しているので、恐らく翌年のことだろうか。その際の受賞作は河野多恵子『みいら採り猟奇譚』(1990年)で、選評では全員河野の作にしか触れていないため、他の候補作が何だったのかは結局わからない。
参考文献・サイト
「藝術院とは何か?」を収録
おまけ
江藤淳は吉行淳之介を批判したが、江藤と対談した中上は吉行とは友好的だった。写真は『唐十郎血風録』より。
恐るべきパフォーマンス・アートの世界
人体を使った、奇天烈、無謀、グロテスク、意味不明なパフォーマンス・アートをまとめてみた。一部閲覧注意。
Light/ Dark- Marina Abramovic & Ulay- performance art
Marina Abramović & the arrow that could have easily taken her life (Rest Energy, 1980)
Yves Klein - Blue Women Art - 1962
Yoko Ono Cut Piece 1965 Music Yoko Ono Darkness Georgia Stone avi
Selbstbemalung/Selbstverstümmelung, (1965).
Rudolf Schwarzkogler - "4. Aktion" (1965)
George Mathieu y Vangelis en Improvisation 1971
joseph beuys-I liked america and america likes me, 1974
ORLAN, Omniprésence, 1993. Extrait
Tehching Hsieh - One Year Performance 1980 -- 1981 (Time Clock Piece)
Wall floor positions, 1968. Bruce Nauman
Vanessa Beecroft: VB64 Performance / Sculpture at Deitch Studios, Long Island City
Pussy Riot Punk Prayer Virgin Mary, Put Putin Away English Subtitles YouTube
MURAKAMI,Saburo "Passage" (1994)
Vox Pop: "Sem título (Blood Sign #2 / Body Tracks)" de Ana Mendieta | Museu Coleção Berardo
Artist Spotlight: Andy Warhol Eats a Hamburger
「教祖」から抜け出すことの難しさ
教祖化する文筆家というのがいる。横光利一とか、小林秀雄とか、吉本隆明、柄谷行人とかだ。彼らはみな晦渋な文章を書いたという共通点があるが、それだけではない。難解であるというだけでは、「教祖」になることはできない。教祖になるために必要なのは、「はったり」と「同時代性」と「人間的魅力」である。
しかし、ここで書きたいのは、教祖批判ではなく、教祖的なものから抜け出すことの難しさだ。Aという教祖を批判しても、Bという教祖には心酔する、もしくは教祖を批判しつつ自分自身が教祖化していく、そういうことが往々にしてあるのである。
小林秀雄の批判者としては、ずばり「教祖の文学」を書いた坂口安吾が知られている。この文章は1947年に『新潮』に発表されたもの。内容は、坂口が「小林の文章にだまされて心眼を狂わせていた」と告白することから始まり、小林の文章技法を説明していく。
彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念さも世阿弥には疑わしいものがないのだから、と言っているのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑わしいものがないということで支えてきた這般の奥義を物語っている。全くこれは小林流の奥義なのである。
自明ではないことをあたかも自明であるかのようにして押し切っていく。これが俺のいう「はったり」の一つであるが、安吾にしてもそうした「はったり」と完全に手を切っているわけではない。「教祖の文学」の前年に書かれ、彼を有名にした「堕落論」もまた、その手のレトリックが使われている。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければいけない。
「正しく堕ちる」とはいったいどういうことなのかよくわからないが、坂口にはわかっていたのだろうか。こういう非論理的ながらも、勢いで持論を展開するやり方は、彼が批判した小林と似ている。実は、「教祖の文学」にも、そういった激情的な部分が見受けられ、特に後半になるとそれが一層加速し、あたかも失恋した人間が恨み言を述べているかのようにも見えてくる。元々、坂口は小林を「盲信」していたのだから。
もしも、私たちの面前に「俺はこれから堕落しようと思っているんだ。堕落したら救われるからネ」などと得意になっているような手合いが現れたらどうであろう。しかもそいつが、「俺は正しく堕落する考えだ」などといったら、私たちは閉口するほかあるまい。それこそ自分に甘え他人に甘えた鼻持ちならぬ観念家である。卑屈にして傲慢なる独善的自己陶酔でありかつ自己欺瞞。ましてや、かかる人物が、そのような意識を抱くことによって自虐しているなどと考えるならば、それは即ち最も低俗な意味での自愛でしかない。(「贋の季節」 坪内祐三編『「文壇」の崩壊』所収)
十返は、一時期売れっ子評論家になったが、坂口や小林のように、カリスマになることはなかった。それは、「軽評論」と呼ばれた、明快で地に足のついた文章によるものだが、俺はそんな十返が好きである。是非、読んでもらいたい。
話を「教祖から抜け出すことの難しさ」に戻すと、最近では鹿島茂のケースがある。鹿島には、『ドーダの人、小林秀雄』という著作があって、ここでは「ドーダ」という概念を使い徹底的に小林のはったりを暴き出しているのだが、吉本隆明について書いた『吉本隆明1968』では、「吉本隆明の偉さ」についてひたすら解説するだけに終っている。呉智英が『吉本隆明という「共同幻想」』の中で書いているが、鹿島は小林の「アシルと亀の子」というタイトルの付け方のはったりを指摘していながら、同じはったりを用いた吉本の「マチウ書試論」については何も言っていない。小林のはったりには鋭く切り込める鹿島も、吉本に関しては大学生の時に衝撃を受けて以降、その影響から抜け出せなかったということになる。『吉本隆明1968』という書物は、鹿島(とその世代)にとってなぜ吉本が重要だったかということはわかるが、その「偉さ」については、まったく理解できなかった。「同時代性」というのは、それぐらい激しい呪縛なのだろうか。
しかし、『吉本隆明という「共同幻想」』(2012)で吉本を批判した呉も、『読書家の新技術』(1982)では『共同幻想論』に対し、「内容は重要」と書いていた。
ジェニファー・ライト 『史上最悪の破局を迎えた13の恋の物語』
国会図書館サーチで、日本語で書かれたノーマン・メイラーについての記事を見ていたら、この本がひっかかった。去年の9月に出版されているのだが、新刊情報に疎いせいで今まで見逃していたのだ。クリックし、掲載されている目次を見ると、自分の関心領域と被っているところが多かったので、さっそく読んでみた。
内容はタイトルからもわかる通り、有名人たちの恋愛物語。取り上げられているのは、前半がネロ、アリエノール・ダキテーヌ、ヘンリー八世などの貴族で、後半になると、バイロン、オスカー・ワイルド、イーディス・ウォートン、ノーマン・メイラーなどの文学者が多くなる。女が主役の章もあるが、印象に残るのは、ネロとかラスキンとかオスカー・ココシュカとかノーマン・メイラーのような、サディスティックな奇人たちだ(例外として、アンナ・イヴァノヴナ)。
基本的には非常に軽い読み物で、その分野に詳しい人にとっては物足りないだろうが、自分はオスカー・ワイルド以外知らないことが多かったので、興味深く読めた。ただ、「古代ローマ時代には、同性愛の関係は難色を示された」とか、ヴィクトリア朝が性に対し抑圧的だったとか、疑問符がつく記述も少なくない。また、ユーモアのつもりなのかジョークを大量に散りばめた文章もうっとおしい。なので、具体的な人物描写に焦点を絞って読むのをおすすめする。
自分が驚いたのは、美術評論家のラスキンが、結婚初夜に妻との同衾を拒んだこと。本書によれば、ラスキンは小児性愛者で、成長した女の身体に興味を持てなかったようだ(といっても相手は当時19歳だったのだが)。また、イーディス・ウォートンが、アル中で鬱病だった夫とは肉体関係を持てず、45歳の時にヘンリー・ジェイムスの友人との間に起きた情事が、ほぼ初めてのセックスであったというのも、驚愕だった。
バイロンとキャロライン・ラムとの関係については、アンドレ・モロワの『バイロン伝』で知っていたが、本書で描かれているバイロンに対しラムが行ったエキセントリックな行動については少しバイロンに同情した(しかし、同じモロワの書いた『シェリイの生涯』を思い出すと、バイロンには怒りしか感じなくなる)。ちなみに、キャロライン・ラムについては、劇作家のロバート・ボルトが映画化していて、リチャード・チェンバレンがバイロンを演じている。日本では未DVD化作品なので、いづれソフト化してほしい。
これを読んで、俺はもっと詳しいことを知りたくなったが、ノーマン・メイラーやイーディス・ウォートンの伝記が翻訳されることはないんだろうなぁ。メイラーの生涯とか絶対に面白いはずなんだが。