ノーマン・メイラー 『アメリカの夢』

 本書『アメリカの夢』は、元々エスクァイアに連載されていたものだ。アメリカでは、日本のように長編小説を締切に合わせ、雑誌に「連載する」という習慣がないものだから、メイラーの試みは結構注目された。ディケンズの真似ともいわれたが、本人はドストエフスキーをイメージしていたようだ。

 エスクァイアに第一話が掲載された時、メイラーファンだった大江健三郎は興奮のあまり、わざわざ石原慎太郎に電話して、冒頭部分を読んで聞かせた。それぐらい、メイラーに対する期待値は高かったわけだ。残念ながら、大江が読んだ箇所は、単行本にするさいに削除されてしまったのだけど。ちなみに、新潮社から出ていたメイラー全集の月報に、大江と石原は寄稿している。

 『アメリカの夢』はメイラー10年ぶりの小説ということもあって、雑誌掲載後、出版社は大金を出して、この小説の出版権を買った。『大統領のための白書』とか、政治の方向に突き進んでいたメイラーが、「満を持して小説の世界に帰ってきた!」というわけだ。それで、肝心の出来だけど、これが賛否両論なのだ(つまり、否が80パーセントぐらい)。大方の意見としては、「陳腐なメロドラマ」というぐらいに落ち着いていて、植草甚一なんかも、メイラーが対象との距離を見誤ったなんてことをかいている。

 だけど、僕個人としては、『アメリカの夢』は、最高の小説だと思っている。というのは、僕がメイラーという「人間」にとても興味を持っていて、この小説にはメイラーという「人間」が、彼の書いたどの小説よりも一番よく表れているからだ。いや、表れているどころじゃない、もう大爆発している!

 主人公のスティーブ・ロジャックは、第二次大戦の英雄で、26歳の若さで民主党下院議員になり、議員辞職後、実存主義心理学(!)の教授に就任し、テレビでも大活躍するセレブ。しかも、ケネディとダブル・デートし、「リッツみたいな大きなダイヤにあきあきした女」を口説き落としたこともある。この経歴を聞いただけで、興奮せずにはいられない。これはまさしくメイラーそのもの。正確に言えば、メイラーが考える超人(=ヒップスター)だ。彼は、自分を超人としてデフォルメし、小説を書き上げたのだ。

 ロジャックは、戦中、ある満月の夜に、ドイツ兵4人を殺した。それ以来、生と死の感覚は、満月の夜に増幅される。死が常に彼を呼び、彼は生きる感覚を失いそうになる。そして、満月の夜、彼は、ビッチのような生き方をしている自分の妻デボラに怒りを感じ、格闘の末扼殺すると、興奮冷めやらぬまま、今度はドイツ人メイドルータとアナルセックスに及び、最後には妻の死体をバルコニーから突き落とす。彼は生の感覚を暴力とセックスで取り戻した。

 事件後、警察の激しい尋問にあうもなんとか切り抜けると、たまたま入ったバーで歌手のチェリーに惹かれ、彼女と激しい性行に及ぶ。ここの描写の大仰さは、ただことじゃない。ありとあらゆる言葉をつくし、セックスを美化するのだが、やりすぎて逆に空虚さが浮かび上がってくる。『アメリカの夢』では、主人公ロジャックが奮闘すればするほど、逆に滑稽なものに見えてくる。というのも、奮闘するポイントがことごとくずれているからだ。でも、僕はそここそがこの小説の面白さなんだと思っている。その「ずれ」こそが、メイラーの最大の魅力なのであり、メイラーの本質だ。だから、「ずれ」が大量に噴出する本書は、小説としては間違いなく失敗作で、これは「アメリカ」の夢ではなく、「メイラー」の夢である。その失敗を許容できるかが、本書の評価の分かれ目だろう。

 邪魔なデボラを殺し、チェリーとの甘美な情事に耽るロジャックに、更なる困難が立ちふさがる。警察の追及、チェリーの恋人である黒人歌手シャゴ・マーチン(チェーリー曰く『種馬』)との一騎打ち、そしてデボラの父でありアメリカを裏から牛耳る大物ケリーとの対決…… メイラーは常に主人公を2項対立に追い込み、彼の強さを証明していく。しかし、彼はあることがきっかけで全てを放棄することになる。それから、彼は、ただひたすら生の感覚を求めて、南米に旅立つのだった。

 『アメリカの夢』以降、メイラーはだんだんと自分をモデルにしなくなっていく。代わりに彼が選んだのは、殺人鬼(『死刑執行人の歌』)やキリスト(『奇跡』)といった本物のアウトサイダーだ。メイラーは、自分がアウトサイダーではないことに気付き、他人に自分の夢を託すようになった。そして、その行為は、最終的に、ヘンリー・アボット出獄という悲劇を巻き起こすことになる……

 

ノーマン・メイラー全集〈第7〉アメリカの夢 (1969年)

ノーマン・メイラー全集〈第7〉アメリカの夢 (1969年)