消えた金井美恵子インタビュー

 1985年に福武書店から出版された金井美恵子の『文章教室』(初出は『海燕』83年12月号から84年12月号)は、87年には同出版社から文庫化され、その際、「『文章教室』では何を習うべきか」と題された金井へのインタビューが追加された。聞き手は蓮實重彦である。

 それが、1999年に河出書房より『文章教室』が再度文庫化された時には、なぜか削除され、代わりに金井による「文庫本のためのあとがき」と三浦俊彦の解説に置き換わった。二人とも蓮實によるインタビューについては触れていない。ちなみに、金井と蓮實の対談は、99年に出版された『文藝別冊 サヨナラ特集 淀川長治』の中の「淀川長治──継承不能な突然変異」が最後になっているようだ*1

 なので「『文章教室』では何を習うべきか」はいまのところ福武文庫版『文章教室』でしか読めないのだが、ちょっとその中身を見てみよう。

 

蓮實 先生が、「文章教室」という長編小説を書かれた〈創作意図〉というか、この作品にこめられたメッセージについてうかがいたと思います。作家は必ず〈創作意図〉を持っておられるわけでしょうか。

金井 〈創作意図〉について書いたり語ったりした小説家の言葉や文章は、いろいろ読みました。興味深いものですからね。あまり自分ではそれを語らない作家もいるわけですし、そこで創作意図というのを批評家は詮索するわけですけれども、批評家が詮索してくれた意図というのは、読んでいてぴんとこなかった。

 たとえば風俗小説だとか、家庭小説と言われたのはともかく、いちばんぴんとこなかったのは、風刺小説という言葉でしたね。風刺小説というのは、たとえば倉橋由美子さんのような誰が考えても風刺作家としか呼びようのない小説家が、自分が書いたのは風刺小説じゃないということを、わざわざ言ったりするほど卑しいものではないかもしれないけれど、風刺という意図はなかったんです。ただ、いろいろな小説家の書いた文章や雑誌の無署名の文章を引用するために書き写していると、とても面白かったので、こんなに楽しんでしまっていいのか、という気持ちは、まあ正直いってございましたね。

蓮實 〈創作意図〉を誤解されたということでしょうか?

金井 よく理解されなかったということになるかもしれません。風俗小説とか家庭小説という意見もありました。それも意図を誤解されたという感じがします。

蓮實 その誤解は男性の批評家によるものでしょうか。

金井 かならずしもそうではありません。女性の批評家と女性の評者の場合は、そうですね、主婦の恋愛を手軽く扱いすぎるのではないのかとか、中産階級の腐った生活を書いていて、それがただ書かれているだけで、それに対する批評がない、と言うのです。問題意識がなさすぎる小説だというのですね。他者という存在が見えてこない小説なんだそうです。

蓮實 そうした反応が起こるのは、女流作家の方が、〈子宮感覚〉でものを考えていらっしゃるからでしょうか(笑)。

金井 むしろ、その反対ではないでしょうか。その子宮感覚というのが、ほとんど男の批評家には単に彼等が肉体的にそれを持っていないということだけではなしに、理解できないわけですし、子宮で考えるということを、ほとんどの女流作家は、非常な軽蔑的な言葉として受け取っちゃうわけで、ほとんど、頭というものがない、と言われたと感じるようですね。批評家のほうは子宮感覚というものがどういうものであるかということを理解せずに使っているわけですから、これもまた、頭がからっぽイクォール男根がない、という意味で使用いたしますね。本来だったらほめ言葉かもしれないものを、妙なところでお互いに誤解したまま使い合っているという感じがしますね。

蓮實 〈子宮感覚〉をめぐって、実態を欠いたキャッチボールが行われているわけですね(笑)。ところで「文章教室」の単行本の装幀を拝見いたしますと、丸谷才一さんの「文章読本」によく似ています。あれはやはり〈創作意図〉に含まれるものでしょうか。

金井 そうです。装幀者も小説を読んで「それしかない」という考えでした。女流作家の小説は、是非、花と毛筆の文字で飾られる必要があるし、「文章読本」のことはまっ先に意識したようです。「文章教室」というタイトルであるからには、「文章教室」という感じの本にしたいと──。

蓮實 やはり男性の先行作家丸谷さんに対する敬愛を含んだこだわりというか、アンビバレントな感情があるわけでしょうか。

金井 丸谷さんの小説や評論はいつも興味深く読んでおります。いわゆるロマン、まあ風俗小説と言っていいかと思いますが、そういったものをお書きになる日本では数少ない作家ですし、今まで書いていたのとは違うタイプの小説を書くきっかけになったのが、丸谷さんや中村真一郎さんといった長編小説の書き手の小説だったことは、確かでございます。そればかりではありませんけど。

蓮實 普通、女流の方々は、〈子宮〉で考えておられるので、他人の作品というのはあまり存在しなくなると思うのですが、金井先生の場合には非常に他者の言葉が多く入っている。これはやはりフロイト的に言って何かあるのでしょうか。

金井 フロイト的には何もありません。本来小説は子宮で書くものだと思っているのです。子宮というのは何をかを生み出すもののわけですから、いつも他者を孕んでいる。子宮から生み出されるものは、そこでまた当然他者と遭遇するであろうと思いまして(笑)。ですから当然……。

蓮實 子宮というのは他者との〈交通〉の場ですね。

金井 はい。子宮の中に自分と別の免疫を持ったものが入り込んでくるのが、妊娠という体験なわけですから、子宮そのものが、実は他者を孕むものとして存在している。そして、子宮は「陥没地帯」とでも言うべきものではないでしょうか(笑)。男根と女陰の対立を超えちゃったものなのですね、場として。

蓮實 なるほど、〈外部〉に向かって開かれた場でもあるわけですね(笑)。

金井 その通りです。(pp.325-328)

 

 ここで盛んに言っている「子宮感覚」とは、1978年に中沢けいが『海を感じる時』で第21回群像新人賞を受賞した時に、選考委員だった吉行淳之介が「十八歳の少女である作者が、その年齢の子宮感覚を描くとき、それは見事である。あるいは、少女がそういうことを書く時代になり、やがて女の秘密は女の側からしだいに瞭かにされてゆくかもしれない(?)という感慨があった」*2と評したことに端を発する冗談だ。しかし、河出書房が『文章教室』の文庫を出した99年頃には、意味のわかりにくい発言になっていただろうから、それがこのインタビューを再収録しなかった一つの原因であるかもしれない。ちなみに、「交通」は当時柄谷行人が文芸批評でよく使っていた用語で、「陥没地帯」は蓮實の小説である。

 

蓮實 事実を書いてしまうと、それが滑稽に見えるというのは近代社会のパラドックスですね。このパラドックスをいま改めて書いてみると、それがパラドックスには見えないという、もう一つのパラドックスが生まれる。そのパラドックスを楽しみつつ理解する人を、ポストモダンと呼ぶわけですが(笑)、そうすると、これは日本で初めてのポストモダン小説というふうに考えていいのでしょうか。

金井 ポストモダン小説という批評もたしかにあったと思います。全然興味がないんでございますけれどもね。でも、そうですね、たとえばポストモダンと言われている作家の一人に、ジョン・バースという人がいますね。単純な進歩主義歴史観で、ジョイスやプルーストカフカの影響を受けて出発して、すでに暮れ方に達している作家たちの遺産を自分たちはどう受けつぐかが問題なのだ、というようなことを書くんですが、こうした単純な歴史主義が、ジョン・バースを読む限りにおいてはポストモダンだという感じがしてしまうものですから、ポストモダン小説と言われると馬鹿と言われたような気がしました。ポストモダンというのは全ての小説は書かれてしまったと嬉々として言う人たちのことですね。私はそう単純に小説が進歩するとは思ってないですし、小説が新しくなければならないなんてことは信じてないのです。(pp.334-335)

 

 ジョン・バースについての批判は、『群像』1988年8月号の「小説をめぐって」と題した高橋源一郎との対談、もしくは群像1996年1月号の「小説の力」という鼎談でも行っていたような気がする(どっちだかうろ覚え)。

 

 上でも出た金井の『文書教室』と丸谷の『文章読本』の装幀。『文章教室』には様々な作家や批評家の文章が縦横無尽に引用されていているのだが、その中の一つとして出てくる「現役作家」の選ぶ「戦後映画ベスト・テン」のリスト*3は、丸谷才一のチョイスを参考にしたという。金井は後に丸谷の『女ざかり』を批判的に書評し、ちょっとした話題を呼んだ。

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文章教室 (福武文庫)

文章教室 (福武文庫)

 

 

*1:http://okatae.fan.coocan.jp/kougo.html

*2:「感想」『吉行淳之介全集』第15巻 新潮社、1998年 p.228

*3:『文章教室』では以下のようなリストになっている。1位『去年マリエンバートで』2位『8 1/2』3位『沈黙』4位『灰とダイヤモンド』5位『スリ』6位『夏の嵐』7位『第三の男』8位『アラビアのロレンス』9位『情事』10位『突然、炎のごとく』福武文庫版p.90