フィリップ・デイヴィス 『ある作家の生 バーナード・マラマッド伝』

 20世紀アメリカを代表するユダヤ系作家として、よくセットで取り上げられるのがソール・ベロー(1915-2005)、バーナード・マラマッド(1914-1986)、フィリップ・ロス(1933-)だ。かつてベローはそういう状況に苛立ち、「文学版ハート・シェフナー・マークス(ユダヤ系資本の高級服飾会社)」と自嘲気味に皮肉ったことがある。3人とも全米図書賞やピューリツァー賞を受賞した経験を持つ実績ある作家だが、ベローはノーベル文学賞、私生活では結婚5回、ロスは26歳の若さで全米図書賞を受賞した後に『ポートノイの不満』がベストセラーになり、女優のクレア・ブルームと結婚するなど、作家活動以外に派手な話題があった。それに比べるとマラマッドは地味で、メディアを騒がすような生活は送らず、31歳の時に結婚した相手と生涯生活を共にした。小説が単行本として初めて出版されたのも38歳の時で、二人に比べるとだいぶ遅く、いわば苦労人だ。また、彼の作品の一部が「忍耐」をテーマとしていたことで、ビートニクからヒッピームーブメントへ続く「快楽」を肯定するような時代と逆行していたことも、彼を地味な作家にした要因でもある。フィリップ・ロスは「ユダヤ人を想像する」という批評の中で、「マラマッドの小説はさながらモラルの寓話物語の様相をていしている」(青山南訳)と書いたことがある。

 私もベローとロスの派手な経歴に惹かれて、二人の作品は率先して読み、マラマッドは後回しにしていた。後に、『魔法の樽』『アシスタント』『もうひとつの生活』『フィデルマンの絵』『ドゥービン氏の冬』を読んだ。『もう一つの生活』(この小説は詩人の荒川洋治も好きらしい)と『ドゥービン氏の冬』は、私小説/モデル小説で、内容もかなり面白く、今ではベローよりもマラマッドの方が上の作家だと思っている。それでマラマッドの実人生も気になり始め、ドライサーについての簡便な伝記を書いたことがある岩元巌の『マラマッド 生活と芸術を求めて』を読んだが、1979年の出版であることから、伝記的内容はあまりなく作品論が主だった。そして、とうとう2015年、英宝社よりフィリップ・デイヴィスのマラマッド伝が藤井伸子の翻訳で出版された。迂闊にも私はそれに気が付かず、今年に入りようやく読んだ。

 伝記にはマラマッドの生涯が余すところなく書かれている。マラマッドは、東欧からの移民で食料雑貨店を営む両親のもとに生まれた。その三年後には弟ユージーンが生まれる。母親のバーサは統合失調症で、自殺未遂をした後、精神病院に入り、マラマッドが15歳の時に死んだ。弟のユージーンも後に統合失調症と診断され、社会に上手く適応することができなかった。父親のマックスはきちんとした教育を受けていなかったが、社会主義者で自由思想家であると自ら任じ、神を信じていなかった。同世代のユダヤ人に比べ、宗教的な教育をマラマッドはほとんど受けなかった。ただ、小説の中には、宗教をモチーフとした作品がいくつもある。

 マラマッドは小学生の時から小説を読むようになり、自分でも書いてみるようになった。彼の青春時代は、あの大恐慌と重なり、多くの抑圧を受けることになった。特に女性との交際経験の少なさを、彼は気にしていたようだ。「満たされない性欲」というテーマは『アシタント』や「静物」といった作品で描かれている。また、彼がロマンティックな恋愛結婚にこだわっていたことは、「魔法の樽」や『ドゥービン氏の冬』によく表れている。

 マラマッドはパーティーで知り合った3歳年下のアン・デ・キアラと1945年に結婚したが、出会ってから結婚まで4年近くかかっており、二人ともそれが情熱的なものでないことは意識していた。父親のマックスは息子の結婚相手がユダヤ人ではないことに不満を持ち、二人の仲は長く冷え込むことになった。

 マラマッドは高校の教員として働いていたが、大学で教えることを目指し、夫婦で協力し国中のありとあらゆる大学に職を求める手紙を出した。その数は200通に及び、ほとんど返事はかえってこなかったが、1949年、なんとかオレゴン州立大学への就職が決まる。ただし、マラマッドは博士号を持っていなかったので(最終学歴はコロンビア大学の修士)念願の文学を教えることはできなかった。彼が担当したのは国語科での作文で、授業を味気なく感じることもあった。この時の経験の多くが『もうひとつの生活』に活かされていて、小説のモデルとなった人物のことも伝記に書かれている。私個人としては『もう一つの生活』がマラマッドの小説の中で一番好きだ。学内における権力闘争の描き方では、筒井康隆の『文学部唯野教授』よりもはるかに優れていると思う。

 マラマッドの作家としての人生は、この辺りから上向き始める。短編が一流の雑誌に掲載されるようになり、長編小説『ナチュラル』が52年に出版される。そして、57年には『アシスタント』、58年には短編集『魔法の樽』が出版され、『魔法の樽』で全米図書賞を受賞。61年にはベニントンカレッジ言語文化学科へ転職する。ここでは初めから創作を教えることになった。フィリップ・ロスはベニントン在籍時のマラマッドをもとにして『ゴーストライター』を書いたと言われている。ベニントンではアーリーン・ヘイマンとの出会いもあった。彼女はマラマッドの学生で、一時期、彼の愛人となった。マラマッドはその時の出来事をもとに、『ドゥービン氏の冬』を書いた。『ドゥービン氏の冬』の前半は田山花袋の「蒲団」にやや似ている。ちなみに本書には日本語版のおまけとして、アーリーン・ヘイマンが書いた短編「マレーに恋して──バーナード・マラマッドの思い出に捧ぐ」も収録されている。伝記の中でも、この短編は資料の一つとして引用されている。

 伝記には他にも面白いエピソードがいくつもある。例えば、マラマッドはベローがノーベル賞を受賞した時、創作ノートにこう書いたという。「一〇月二一日ベローがノーベル賞を受賞した。私はポーカーで二四ドル二五セント勝った」と。決して主役にはなれなかった男の悲哀と悔しさが、ここには漂っている。ベローがノーベル賞を受賞してから10年後、マラマッドは心臓発作でこの世を去った。

 最近では柴田元幸の翻訳から始まり、『レンブラントの帽子』『アシスタント』の復刊、岩波文庫に『魔法の樽』が入るなど、意外とマラマッド受容が進んでいる。後は未訳となっている作品が翻訳されたり、「もうひとつの生活」などの長編が復刊されたりするとさらに良いのだが。

  

ある作家の生―バーナード・マラマッド伝

ある作家の生―バーナード・マラマッド伝

 

  

もうひとつの生活 (1970年)

もうひとつの生活 (1970年)

 

  

ドゥービン氏の冬 (1980年) (白水社世界の文学)

ドゥービン氏の冬 (1980年) (白水社世界の文学)

 

  

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)

魔法の樽 他十二篇 (岩波文庫)