ロックスターとロマン派詩人が重なる時
高校時代、俺のアイドルはリバティーンズのピート・ドハーティだった。彼の作る音楽はもとより、文学に対する造詣の深さとデカダンスな生き様、そしてスタイリッシュなファッションセンスを兼ね備えているところが、文学とロックは好きだったものの、はちゃめちゃにださかった当時の俺(今もだが……)に強烈な憧れを抱かせたのだった。ドハーティに影響を受けた俺は、部屋の壁にプリンターで印刷した彼の写真を貼り、彼が好んでいる本や映画、音楽をウィキペディアで調べ、挙句の果てには、大学入学後、彼が愛飲しているというラム・アンド・コークまで作って飲んでいた(アルコールに激弱なので、コンビニで買った度数の高いラム酒がなくなるまでに半年近くかかった)。
ドハーティといえば、音楽活動以上に、タブロイド紙の売上に貢献するスキャンダル王としても知られていて、トップモデルのケイト・モスと付き合っていた頃なんか、毎日のように薬物関係の話題で取り上げられ、実際逮捕とリハビリを繰り返していた(調べたら、2019年もパリで逮捕されていた。もう40歳なんだが)。もし、俺がイギリス人でそういう情報を直接目にしていたら、好きになることもなかったかもしれない。結局、よくあることだが、自分とドハーティの性格の違いを明確に自覚したことで、自然と熱は冷めた(今でも音楽は聴くけど)。ジャンキー全開のドハーティを映したドキュメンタリー『フー・ザ・ヘル・イズ・ピート・ドハーティ?』を観ても、特にショックはなかった。
それで、彼がシャルロット・ゲンズブールと一緒に映画に出た時も、特に見ようとは思っていなかったのだが、その映画がミュッセの『世紀児の告白』を原作にしたものだとわかり、少し興味をそそられた(邦題は『詩人、愛の告白』)。ミュッセといえば、ジョルジュ・サンドとの恋愛が有名で、自分はミュッセよりもサンドの方に関心があったのだが、『世紀児の告白』はそのサンドとの関係をもとにしたいわば私小説なので、とりあえず長塚隆二が書いたサンドの伝記、野内良三が書いたミュッセの伝記、それからサンドの『彼女と彼』(ミュッセの死後、二人の関係をサンドの側から描いた自伝的要素の濃い小説)を読んでから、今回『詩人、愛の告白』に挑んだ。ちなみに、「世紀児」というのは、「世紀病」という「一八世紀末から一九世紀前半にかけて青年たちを捉えた漠とした不安な空虚感で、ロマン主義文学の特徴の一つに挙げられる感情」に由来する(野内良三『ミュッセ』)。
正直、この映画にほとんど期待していなかった。なぜなら、すごく評判が悪かったから(IMDBでは4.4点)。そして、実際のところ、全然駄目だった。
ざっと、ストーリーを説明すると、こうなる。ある女と交際していたオクターヴ(ピート・ドハーティ)という青年が、とある晩餐会でその女が自分の友人と浮気していることに気付き、決闘を申し込むも、自分の方が撃たれてしまう。(しかし、俺の映像理解力が低いせいで、このあたりがすごく分かりにくかった)。怪我は軽かったが、その後も彼女が浮気を続けていることを知り、女性不振となったオクターヴは、友人デジュネーの手引きで放蕩に身を任せるようなる。しかし、父親の死をきっかけに静かな生活を取り戻し、たまたま雪道でブリジット(シャルロット・ゲンズブール)と出会ったことから、二人の恋愛が始まる。オクターヴの病的な嫉妬や、すれ違いがあり、周囲からも色々噂されていることを苦に、ブリジットは毒を用意するが、オクターヴと和解し、パリに向かう。さらなる旅の準備をするためだ。しかし、パリではスミスというブリジットの友人がたびたびやってきて、不穏な三角関係が構築される。焦ったオクターヴは出発を急かすが、彼女が気乗りでないことを悟る。二人は口論となり、最終的にはオクターヴの方が「君をまともに愛せなかった」なぞと気障なことを言って、ブリジットのもとから去っていく。
俺はこのあらすじを、野内良三が原作について書いたそれをめちゃくちゃ参考にして記したが、野内のものを見る限り、映画は原作を忠実に再現しているようだ。
さて、この映画何がつまらないところはざっくり二点あって、一点目が、映画全体に漂うオクターヴのナルシシズムが鬱陶しいということ。野内によれば、ミュッセがこの小説を書いた動機として、以下の三つがあるという。
(1)二人の恋を作品化することによって自分の心の傷を癒すこと(自己救済)
(2)恋人を賛美すること(オマージュ)
(3)この恋の破局の責めはもっぱら自分にあること(謝罪)
(1)はいいとして、問題は(2)と(3)である。これだけ見るとやたら立派だが、実際に俺がこの作品から受け取ったのは、「自分の非を認めるだけでなく、相手の非まで許してしまう俺はすごいだろ?」という、似非ヒロイズムである。「告白≒懺悔」という形式は、野内が指摘するように、聖アウグスティヌスやルソーのそれを踏まえたものであり、またそれらの著作からは「昔は俺も悪いことをしてね……」という臭みが伝わってくるものだ(小谷野敦『「昔はワルだった」と自慢するバカ』)。
この映画においては、ピート・ドハーティ演じるオクターヴのプライドを決定的に傷つけるようなことは何も起こらず、最後にはすべてを受け入れることで、その他の連中より高みに上ってしまう。そういった現実の恋愛とはかけ離れた綺麗事が、オクターヴという男のナルシシズム、またそれを描いたミュッセ本人のそれを、否応なしに想起させてしまう。
しかし、面白いかつまらないかは別にして、製作者がピート・ドハーティをこの役に起用したのはある意味必然だった。二十世紀に入ると、詩の世界はT・S・エリオットを筆頭とするモダニズムが主流となり、ディラン・トマスを例外として、ロマン派的な生き方を実践する人間がいなくなった。それをある意味引き継いだのがロック・スターのような芸能人だが、詩人の風格をもった人間となると、やはりドハーティしかいないのである。余談だが、アレックス・ハンナフォールドが書いたドハーティの伝記のタイトルは『Pete Doherty: Last of the Rock Romantics』となっていて、ドハーティにロマン派的なものを見出すことは珍しくないということだ。
話を映画に戻そう。もう一点、この映画(と原作)に不満があるとすれば、ヒロインにまったく魅力がないこと。映画に出てくるブリジットは、もちろんジョルジュ・サンドをモデルにしているわけだが、ピアノがちょっと上手い未亡人でしかなく(作曲の才能があるという描写が挟まれるが、なぜか自分が作曲したのではないと噓をつく韜晦趣味がある)、現実においてサンドが持っていた猛烈な活力が一切オミットされているのだ。恐らくこれは原作のせいで、そのためシャルロット・ゲンズブールという、やや病的な雰囲気を持つ女優が起用されてしまった。これではサンドと真逆である。だが、『世紀児の告白』は、「オクターヴ一人まかり通る」作品であって、女は結局飾りでしかなく、そんな活力に満ちた女を出してしまったら、オクターヴの暗いナルシシズムは成立しなくなってしまう、という事情があるのだ。
前述したが、サンドにも、二人の関係をモデルにした『彼女と彼』という作品がある。ミュッセの書いたものよりも、はるかに真実に近いと思わせる小説だ。なぜなら、サンドにはこの恋愛を賛美しようという意図がないから。この恋愛が始まったとき、サンドは29歳、ミュッセは23歳だった。
『彼女と彼』のストーリーは以下の通り。テレーズ(モデルはサンド)とローラン(モデルはミュッセ)は画家同士で、同じ芸術家グループに所属していた。テレーズは世話焼きで、才能はあるが遊んでばかりいるローランに発破をかけたり仕事を回したりしていた。ローランの方では、謎めいた家庭環境を持つテレーズに興味を持つが、ある日、テレーズの友人で、アメリカ人富豪のパーマー(『詩人、愛の告白』のスミスにあたる人物。モデルは、イタリア人医師のピエトロ・パッジェロ)から、彼女の秘密を聞かされる。
テレーズには夫がいたのだが、実はその夫に本妻がいて、二人の結婚は重婚だった。本妻の登場でそのこと知ったテレーズだが、夫との間に生まれた子供がスキャンダルに巻き込まれることを恐れ、法的な離婚はせずに、現状維持を選んだ。が、ある日、その子供は夫に奪い去られたうえ、アメリカで死んでしまう。絶望したテレーズだったが、自活する道を選び、今では画家としてそれなりの地位にいる。感動したローランの恋心は一気に燃え上がり、彼女に対し情熱的にアタックする。テレーズはローランに押し切られるような形で交際を始めるも、ローランの猜疑心や怠惰、気まぐれな行動に辟易する。しかし、生活力のないローランを見捨てられず、旅行先のイタリアで彼の面倒を見続ける。
そんな折、彼女の夫である※※※伯爵が死亡する。自由の身になった彼女に、今度はパーマーが告白する。熱意を感じた彼女はそれを了承する。一方、精神的な病が昂じたローランは、自殺を仄めかす手紙をテレーズに送り付ける。二人は急いでフィレンツェにいる彼のもとに駆け付け、テレーズは連日看病し、回復したローランはテレーズに未練を残しながら療養のため一人でスイスへ行かされる。
パリに戻り、結婚の予定まで立てたテレーズとパーマーだったが、偶然ローランが戻ってきてしまったことにより、軋轢が生じる。疑心暗鬼にかられたパーマーとの結婚を諦めたテレーズは、ローランとよりを戻してしまうが、再び彼の気まぐれに苦しめられる。だが、ある日、パーマーによって、実は彼女の子供が生きていたことを知る。パーマーの手引きで我が子に再会したテレーズは、ローランを捨て、子供と生活することを選ぶ。
ジョルジュ・サンドというと、男装し、男の名前で小説を書き、様々な有名人と浮名を流す奔放な女という印象だったが、長塚隆二の伝記を読む限り、ショパンやミュッセといった才能はあるが生活力に乏しい気まぐれな男を世話するのが趣味で(ショパンの傑作が生まれたのは彼女に介護されていた時期ともいわれる)、子供が大きくなってからは、政治よりも子供の安全を心配する生活保守的なところがあった。
『彼女と彼』は、サンドのそうした世話焼きの様子が全面に出ている作品で、またそういうある種愚かしい自分を冷静に見ている事に面白さが表れている。例えばこんな文章(一部新字体)。
しかも彼女の最大の不幸は、彼女の生まれつきの、彼女の本来の宿命的なものともみられる、母性のひらめきを凡ゆる犠牲を拂つても満足させたい、或は優しく愛したい、惜しみなく愛したい、という點にあつた。自然、いつしか彼女は誰かのために苦しむ女になつてゐた。いや、苦しんで上げたいといふやうになつてゐた。そして、この不思議な欲求は、或る種の男性や女性に在つては、非常に特性がはつきりあらはれてゐるが、ローランに對する場合の方が、パーマーに對する場合より一層、彼女をいたいたしいものにしてしまつたのだ。それはパーマーが自分自身、彼女の獻心的なものを必要としない程、ひどくたくましい人間に見えたからだつた。(略)
ローランは、パーマーに比べて見ると、遥かに純情で、彼女が宿命的に打ちこんだやうな、人間的な弱點をもつてゐて、それが特別な魅力をなしてゐた。彼はそれを隠さうとしなかつた。自分の天才のいたましい弱い所を得々として自分を僞らずに、又、はてしのない感情に溺れ乍らも公言してゐた。が、あはれ! 彼も亦誤つてゐたのだ。眞實にパーマーが強い男だつた譯でもないし、それと同様にローランが弱い男だつた譯でもなかつた。彼はよく氣が變る男で、いつも天國の子供のやうに喋つてゐた。そして自分の弱さを一旦征服すると、人から可愛がられる子供がすべてさうするように、人を苦しめる力を發揮し出すのだった。
男に依存しなくても生きることのできる自立した女がこういう風になってしまうのが面白く、こうした恋愛の真実性が描かれているところが、『彼女と彼』を『世紀児の告白』以上の作品と見なす理由で、こういう女を再現できなかったところが『世紀児の告白』のダメなところだと思う。そもそもミュッセよりサンドの方が人間として魅力的なのだから。
Pete Doherty: Last of the Rock Romantics (English Edition)
- 作者:Hannaford, Alex
- 発売日: 2011/07/31
- メディア: Kindle版
なぜ村松剛は三島由紀夫の同性愛を否定したのか?
「三島由紀夫=ゲイ」という等式を疑う人は、今ではほとんどいないと思われる。俺も三島由紀夫の文章や、彼について書かれた物を読む時は、そのこと意識している。というか、半ば常識として捉えているといったほうが正しいか。
だから、週刊誌『平凡パンチ』の編集者で、三島由紀夫を担当していた椎根和が書いた『完全版 平凡パンチの三島由紀夫』で、次のような文章を読んだ時は少し驚いたのだった。
三島の剣道の弟子として、稽古をつけてもらった約一年強の間に、約50回ほど、一緒に風呂に入り、先輩に対する礼儀として背中を流した。しかし一度も、触られたり、なぜられたりすることはなかった。三島がホモだという噂は知っていたが、あれは小説『仮面の告白』を書くための取材のひとつだった、と思いこんでいた。
まあ、ただの編集者に対し、警戒心の強い三島がそんなあからさまなことはしないだろうと思うのだが、「三島の同性愛はポーズではないのか?」という感覚があったことは事実だ(同じことはルー・リードについても言われていた)。鉢の木会で三島と交友のあった大岡昇平にしても、「彼の男色が本物か文学的擬態か」ということを「わが師わが友」の中で書いている。三島が「ブランスウィック」というゲイバーに通っていたのは有名だが、それも作品の取材と称し、敢えて他人と一緒に訪れるという、アリバイ作りにも似たことをしていた。
が、三島の文壇デビューのきっかけとなった文芸誌『人間』の編集長であった木村徳三に対しては、前の二人よりも心を許していたのか、同性愛者であることを匂わせる手紙ややりとりをしていて、『仮面の告白』を準備していた三島からその「倒錯性向」を聞かされても、「格別の愕きもなかった」という(『文芸編集者の戦中戦後』)。
三島が男色について取り組んだ小説は、『仮面の告白』と『禁色』だけだが、前者は華麗な文体と観念的な内容から私小説に見せかけたフィクションとして受け止められ(それに若いころの同性愛というのは決して珍しいことではない)、後者は同性愛が単なる意匠でしかなかった。『新恋愛講座』というエッセイには、「同性愛」という項目があるが、これも完全に他人事として書かれている。それに結婚もしたから、同時代の人間には「三島の男色は見せかけではないか?」と見えても不思議ではない。三島本人が、あえて人を惑わすような言動をしていたので、余計混乱が巻き起こった。人を煙に巻くのが、三島のある種の処世術であった。そのせいで、ボディビルや楯の会も半分冗談として受け止められたのだが。
みなが決定的な判断を下しかねている中、三島の死から四年後に出版されたジョン・ネイスンの『三島由紀夫──ある評伝──』がはっきりと三島の同性愛について記述した。そこには、三島が朝日新聞特別通信員として海外旅行した際、訪問先のブラジルで「十七歳前後の少年」をホテルに連れ込んでいたと書かれている。あと、1988年に出た、ジェラルド・クラークの『カポーティ』にも、1957年、三島がアメリカを訪れた際、カポーティに男の斡旋を頼んだということが暴露されていた。
しかし、1990年、三島の同性愛を猛烈に否定する書物が現れた。それが三島の友人であった村松剛の『三島由紀夫の世界』である。そもそも村松の母と三島の母は友人同士だったらしいが、村松と三島の仲が深まったのは、佐伯彰一によると、プラトンの翻訳者として知られる田中美知太郎が理事長をつとめた保守グループ「日本文化会議」への参加がきっかけらしい(『回想 私の出会った作家たち』)。学生運動が激しくなるのに比例して、両者とも政治的な傾向を強め、民族派雑誌『論争ジャーナル』を三島が支援した際、村松もそれに加わった。
そういうわけで、二人のつながりは文学よりも政治の方にあった。そもそも、村松が規範としていた文学者の一人はド・ゴール内閣で情報大臣を務めたアンドレ・マルローであり、『評伝アンドレ・マルロオ』では、「マルロオの作品の最大の魅力は、その男らしさにある。『征服者』『王道』『人間の条件』を通じて主人公の共通点は、彼らがいずれも荒々しい力への欲望に憑かれていることだろう。そのためには、彼らはすべてを犠牲にする」 と述べている。だが、三島はマルローのような外国を舞台とした冒険小説を書いていないし、そういう体験もない。村松自身は言行を一致させるためか、ベトナム戦争の視察に赴いたこともある。石原慎太郎や開高健といった小説家が前線に行くことはあったが、文芸評論家でそういうことした人は珍しいのではないか。
もっとも、三島とマルローの間に共通点がないこともない。二人とも「死」をテーマにした文学を書き、切腹に魅了されていた。『アンドレ・マルロオとその時代』からの孫引きになるが、マルローは戦前来日した際、「ハラキリにおいて、《死》は消滅する。死という人間的諸条件を、或る人間の意志が、自由に否定する行為であるからだ。ハラキリにおいては、より高き倫理価値が、自己にたいする超越のかたちによって、死にたいする克服のかたちによって肯定されているからである」と言ったと小松清が書いているらしい。
村松、三島、マルローの間ではっきりと一致するのは、全員が家庭的な思考を嫌悪していること。マルローは妻クララと共にカンボジアまで美術品の採集(実質窃盗)に行き、その経験をもとに『王道』を書いたが、そこでは妻の存在が消され、男同士の冒険譚になっている。村松は「再説 女性的時代を排す」の中で、「しかしぼくはやはり、家庭という穴をこえたもの、自分を捧げるもの、男性的なもの、一口にいって哲学を、求める人間の心と、その能力とを信じたい」と書き、三島もそれに同感した旨を葉書で知らせた。余談だが、深沢七郎は、三島の死後、「だけどもし、オレにカミサンがいて……女の子が生まれ、三島由紀夫みたいな人のとこへ嫁にやって、あんな死にかたしたら、オレはおこるね。自分のオカミサンをないがしろにして……失礼でしょう」と書いた。
「男性的なもの」を好んだ村松だが、それが「同性愛」となると、途端に否定的になるのはどういうことだろうか。『三島由紀夫の世界』には次のような言葉が並ぶ(太字はすべて引用者による)。
三島の母堂の倭文重さんは彼の初恋について質問を受けると、
──『假面の告白』に書いてあるとおりです
つねに、そういっておられた。回想録である『わが思春期』よりも記述はむしろ『假面の告白』の方が全体としてくわしく、ぼく自身がもつ若干の知識に照らしても、まさに経緯はそこに書かれているとおりだったと思われる。ただ一点、主人公の同性愛に仕立ててあるということを除いては。
『假面の告白』が「能ふかぎり正確さを期した性的自伝である」ということばは、それ自体がフィクションであることはいうまでもない。だが、性的倒錯にかかわる部分を除けば、この小説は昭和二十三年ころまでの彼の生涯を、きわめて忠実に再現している。
また、三島が木村徳三に宛てて出した「ブランスウイックのボオイの姿が忘れられず、溜息ばかり出て、思春期が再發したみたい。戀心っていぢらしいものですな、ヤレヤレ」という手紙を引用した後で、
ブランスウイックのボーイへの「戀」なるものが、本当だったか否かはかなり疑わしい。文章の調子から見ても、はなしを面白く仕立てて悪戯をたのしんでいるという気配が感じられる。このころ三島と頻繁に会っていた桂芳久は、ブランスウイックにも新橋の十仁病院のそばにあったアメリカ兵が大勢あつまる男色酒場にも彼といくどか同行していたけれど、三島がこういう場処で男色のつきあいに加わったことはなかったと断言している。(三島が一時的にせよ同性愛にとらわれていたこと自体を、桂氏は信じていない。)
当然ながら、村松のこうした文章には、疑問・反論が寄せられた。映画『憂国』の演出を担当した、堂本正樹は、『回想 回転扉の三島由紀夫』で、村松は三島の同性愛を知っていたと告発している。
さて私がNLTの劇団に入ったのは良いが、いずくも同じ内部の人間感情の軋轢で劇団は分裂し、三島と我々は新しく「浪曼劇場」というのを作った。マスコミの披露パーティーには思ったほど記者があつまらず、三島はいらいらした。そうなると関係者も誰も近寄らず、三島はポツンとしていた。その時村松剛が私に、「ホラ、三島さんを一人にしちゃいけない。君がそばについていなくては」というので、「それなら親友の貴方でしょう」と答えると、「いやこういう時はおなじシンユーでもウ冠に限る」と私を押した。「ウ冠」とは何のことなのか、私にはわからなかった。後に三島に尋ねると、「ウ冠」とは「寝友」ということで、村松の秘語だと教えてくれた。……こういう事を言いながら、後で村松が『三島由紀夫の世界』を書いて、三島の同性愛を否定したのは、文芸評論家として自殺行為だろう。
なぜ村松がここまで三島の同性愛を否定しようとしたのか。その理由について佐伯彰一は、「三島さんの政治的パトスに村松が強く共感、また肩入れしすぎた結果、これを出来るだけ純粋無垢なかたちで護りぬきたい、一切の異質的な要素は、忌むべきケガレとして斥けたいという衝動にかられたのではなかったか」と言い、同じく『批評』の同人だった大久保典夫は、村松が保田與重郎や蓮田善明について無知だったとし、「おそらく剛さんには日本浪曼派的なものへの強い異和感があって、知識も付焼刃の域を出なかったのだろう。それらが『三島由紀夫の世界』という彼の渾身の力作を歪なものにした」と書いている(『昭和文学への証言──私の敗戦後文壇史』)。
二人とも村松にそのことを直接たずねたわけではないので、「かもしれない」という仮説に留めている(というか、聞ける雰囲気ではなかったようだ)。村松には『ユダヤ人』や『教養としてのキリスト教』という著作があり、もしかしたら、レヴィ記における同性愛否定に影響を受けていたのだろうか。
三島の同性愛については、愛人だった福島次郎が『三島由紀夫──剣と寒梅』を1998年に出して以降、決定的な事実となった。
裸になった作家たち
作家で自分の裸を露出した人と言ったら、まず三島由紀夫を連想するが、そのほかにも裸の写真を仲間と撮ったり公開したりした作家は意外といる。文筆家がヌードになる必然性はまったくないのだが、エゴの強さなのか、たまには見せたくなるもののようだ。誰が得するかわからないが、俺が集めた写真をここに貼っておく(全部アメリカ文学だった)。
ジャージー・コジンスキー
アレン・ギンズバーグとピーター・オーロフスキー
「文壇史」を書けなかった坪内祐三
坪内祐三が死んだ時、毎日新聞に追悼文が出て、見出しに「無頼派」という言葉が使われていた。
自分はそれを見て、ひどく違和感を覚えた。なぜなら、俺の中での坪内祐三とは、早稲田大学図書館で明治時代の雑誌を渉猟する人であり、『変死するアメリカ作家たち』や『雑読系』といった著書で、文学史の中でもマイナーな人物に光を当てる勤勉な読書家というイメージだったからだ。
いや、正確に言えば、酒を飲まない俺にとって、そういう方面の仕事しか興味がなかった。だから、彼が死ぬまで、タイトルに「酒」が入った著作を読んだことがなかったし、そもそも坪内に「無頼派」的なものを求めていなかった。だから、「酒」の話から始まる毎日新聞の追悼文を読んで、世間はそっちに注目するのかと思った。
もちろん、坪内の著作に『酒中日記』というのがあって、映画化までされているのは知っていたが、坪内にとってそれらの仕事は「余技」的なものなのだろうと勝手に推測していた。
といっても、文芸関連の著作で、ここ最近「代表作」と言えるようなものを書いていたかというと、疑わしい。「坪内ならこれぐらいのものはいつでも書ける」というようものが続いていて、物足りなく感じることも多かった。
俺が生前の坪内に期待していたのは、彼が伊藤整の衣鉢を継いで、新しい『日本文壇史』を書いてくれることだった。知識量的には申し分ないし、彼ほどの人気があれば、そのテーマで連載を持つことも可能だと思ったからだ。また、「文壇史」という枠を与えられてこそ、持っている能力を最大限に発揮できるんじゃないかとも妄想し、文壇史に正面からぶつかっていくことにも期待していた。
だが、今回、『昼夜日記』や『酒中日記』を読んでみて、坪内は「文壇史」を書くことよりも、「文壇史」の登場人物になることを選んだ、という風に感じた。吉行淳之介と永井荷風のハイブリッドというべきか。
坪内は筆一本で食っていくにあたり、意識して「坪内祐三」というブランドを作り上げたと思う。例えば、普通だったら「地味」と一蹴されそうな本を、「シブい」と言い換え、新たな価値を付与したり、あえて「古くさいぞ私は」と言ってみたり、日記において自ら「ツボちゃん」と名乗ったりするのも、キャラ作り・ブランド作りの一環だ。特にユニークだったのが、「無頼派」と「読書家」を両立させたことで、どちらか片方だけだったら、長く売れっ子であることは難しかっただろう。坪内は、「新人類」と呼ばれた中森明夫や野々村文宏より2、3歳年上だが、文筆家デビューは彼らより遅く、「若さ」という武器が最初からなかったから、どうすれば世間から注目されるかということを考える必要があった。
さて、その「無頼派」の評価を確立させた『酒中日記』だが、その著作の主人公である「坪内祐三」という人間に対し、俺は良い印象を持たなかった。なぜなら、あまりに業界的で、如才なく、処世術に長けた男の姿をそこに見出したからで、それは「文学的」とは言い難いものだった。特に、自分は「団塊の世代」以上の男たちから好かれるとか、講談社の編集者から相撲の良い桝席のチケットをもらい、「もちろんもちろん野間社長ありがとう(社長、いつか一緒に大相撲見ましょうよ)」と書いたりするところなんか(引用は『続 酒中日記』より)。この連載に出たがる編集者が多かったというのも、多分に業界的だ。
坪内は大久保房雄の『理想の文壇を』という本の書評で(『シブい本』に所収)、「表面に出て来る批評がよくて、裏で囁かれる批評が悪いのは、その作家にとって最も悪い状況である」という中村光夫の言葉を、大久保著の中から紹介していたが、その裏の批評が現れる場所の一つは、坪内が通った「文壇バー」であろう。石原慎太郎はある座談会で吉行に向かい、「お前、飲み屋で人の作品けなしたりするのやめろよ。姑息でいやらしいやつだな」と言ったらしいが(『昔は面白かったな 回想の文壇交友録』)、坪内はそういう場でオフレコの批評が行われているのを知っていたからこそ、バー通いを熱心に行っていたのではないか。川端康成なんか、酒を飲めないにも関わらず、文壇バーに顔を出していたが、それはやはり「監視」的な意味合いもあったはずだ。伊藤整は、「酒についての意見」で、「私は田舎の中学校の教員仲間と酒を飲むことによって、酒の飲み方、酒の世間的な飲み方を知り、酒と噓と妥協とが切り離されないものであることを知った」と書いたが、坪内の『酒中日記』が人気だったのは、そういうことを書かなかったからだろう。
文筆家である坪内にとって、最も深刻だったのは、その酒量だ。2014年5月8日の酒中日記では、「五十六歳の誕生日。体調きわめて悪し。血をけっこう吐く」とある(引用は『昼夜日記』より)。が、その後も記憶がなるなるまで飲むということを何度も続けている。還暦が近い人間の飲み方とは思えないし、依存していたのではないか。延江浩によると酒乱でもあったらしい*1。こういう生活をしていたら、いつ潰れてもおかしくはない。福田和也が『新潮』に寄せた追悼文で、「僕が長生きして、文壇について語ると、それが全て真実になる。文壇史を捏造しよう」という坪内の言葉を紹介していたが、大量の酒を飲みながら、自分が「長生き」することを前提で生活していたのも、見通しが甘かった。伊藤整が、大久保房雄に依頼されて『日本文壇史』を書き始めたのは47歳の時で、本格的な仕事を残すとしたら、それぐらいには始めていないといけないのかもしれない。当時の伊藤は売れっ子作家だったが、まず『日本文壇史』を書いてから、他の仕事に取り掛かったという。
高橋英夫が、『日本文壇史8』(講談社文芸文庫)の解説で、「伊藤整にとっては『日本文壇史』を書き続けることと、彼自身が「文壇」人として生きてゆくことは完璧に一体化していた」と書いているが、坪内にもそういった生き方を選択してほしかった。結局、坪内は持っている実力をフルに出さないまま逝ってしまったように俺には思える。
諸君! 2007年10月号 私の血となり、肉となったこの三冊
『諸君!』2007年10月号では、「読書の季節の到来にちなみ」、「人格・精神形成に大きな影響を与えた本」、「人生の見方、考え方に影響を与えた本」をテーマにし、著名人108名にアンケートを行っている。以下、気になったものを挙げてみる(出版社・訳者などは省略)。
トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』
吉田健一『ヨオロッパの世紀末』
『小川未明童話集』
五味川純平『人間の条件』
ラヌッチョ・ビアンキ・バンディネッリ『古典美術の歴史性』
つかこうへい『小説熱海殺人事件』
谷沢永一『紙つぶて(全)』
ミスター高橋『流血の魔術 最強の演技』
(3)オルテガ『大衆の反逆』
小林秀雄『近代絵画』
サルトル『殉教と反抗』
グリエルモ・フェレーロ『権力論』
・『聖書物語』『ギリシア神話物語』
・『石川啄木詩集』
・森崎和江『まっくら』
ホイットマン『草の葉』
ヘンリー・ミラー『北回帰線』
竹田青嗣『近代哲学再考』
ジル&ファニー・ドゥルーズ『情動の思考──ロレンス『アポカリプス』を読む』
足立巻一『やちまた』
(一)慈圓大僧正『愚管抄』
(二)新井白石『西洋紀聞』
(三)竹山道雄『昭和の精神史』
石川淳『至福千年』
開高健『夏の闇』
藤枝静男『空気頭』
『プルーターク英雄伝』
ウィリアム・ジェームズ『宗教経験の諸相』
セシル・スコット・フォレスター「ホーンブロワーシリーズ」
中島文雄『英語の常識』
デュマ『三銃士』
一、澤田謙『プルーターク英雄伝』
長谷川伸『夜もすがら検校』
橋川文三「昭和超国家主義の諸相」(『昭和ナショナリズムの諸相』所収)
『西條八十歌集』
1、吉田松陰『講孟余話』
2、キュルーゲン『一老人の幼時の追憶』
3、ブチャー『ギリシア精神の様相』
サルトル『分別ざかり』
クレジオ『愛する大地』
『聖書』
松井孝典『地球・宇宙・そして人間』
ルソー『人間不平等起源論』
アレント『革命について』
ウエスト『マスク作戦』
コッチ『ダブル・ライヴズ』
西木正明
西岡一雄・海野治良・諏訪多栄蔵『登山技術と用具』
トール・ヘイエルダール『コン・ティキ号探検記』
トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』
2、伊丹十三『女たちよ!』
3、萩原朔太郎『青猫』
楠山正雄訳『少年ルミと母親』
『鈴木貫太郎自伝』
エルヴィン・シュレーディンガー『生命とは何か』
清水博『生命を捉えなおす』
橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』
獅子文六『大番』
小林信彦『東京のロビンソン・クルーソー』
金子光晴『ねむれ巴里』
(3)ロバート・ボルト『すべての季節の男──わが命つきるとも』(『世界文学全集』別巻2所収)
三木清『人生論ノート』
①西里龍夫『革命の上海で──ある日本人中国共産党員の記録』
(1)星新一『ようこそ地球さん』
(2)永井均『〈子ども〉のための哲学』
(3)アラン・ボブソン『夢の科学』
斎藤貴男『機会不平等』
ポリー・トインビー『ハードワーク』
菊池英博『実感なき景気回復に潜む金融恐慌の罠』
①佐々木邦『凡人伝』
②パスカル『パンセ』
③アレキシス・カレル『人間──この未知なるもの』
一、三宅周太郎『演劇巡礼』
一、加藤周一『政治と文学』
一、レコード常磐津『角兵衛』
渡邊恒雄
出隆『哲学以前』
カント『実践理性批判』
保守系の雑誌なので当然人選もそちらに偏っている。学者は外交関係が多いか。また、普段読書系のアンケートには無縁な、実業家や政治家がいるのも特徴。
三冊しか選べないわりには結構被っている本もあって、『聖書』などの古典は特に不思議ではないが、島崎藤村『夜明け前』(加地伸之、佐瀬昌盛)、森鷗外『渋江抽斎』(田原総一朗、徳岡考夫、林望)は意外だった。
また、三木清、林達夫などは時代的なものを感じさせる。竹山道雄の『昭和の精神史』という本を俺は知らなかったが、小堀桂一郎と八木秀次が選んでいて、これも時代的なものなのだろうか。
渡邊恒雄の選書は知らない人には驚きかもしれないが、渡邊は開成中学時代、文学を諦め哲学に転向するという事があって、ショーペンハウエルなどをよく読んでいた。軍隊に招集された時も、カントの『実践理性批判』とブレイクの詩集を持ち込んだりした。そうした読書遍歴は、『渡邊恒雄回顧録』に書いてある。
堀田善衛窃盗事件の真相?
以前、小谷野敦のブログで堀田善衛が窃盗で捕まったことを伝える新聞記事の引用を読んだ。
以来、そのことが記憶の片隅にあったのだが、先日、読売新聞で文化部の記者だった竹内良夫の『文壇のセンセイたち』という本を読んでいたら、その事件の詳細について書かれていた。
堀田さんは二十三日の夜、新潮社へ依頼された原稿を届けた。その日はその原稿のために、二度徹夜をして、疲れていた体で、その新潮社の記者と、新橋へ行って飲んだ。あまり寝ていないので、酔いはすぐ廻って、すっかり泥酔してしまった。新橋駅で記者と別れて、逗子へ帰るため、横須賀線に乗りかえようと、品川駅で降りた。あまりの泥酔で、駅の荷物運送車に乗りこんでしまい、無意識で傍らの荷札を手でむしっていた。ハッと気がつくと、それは重要な他人の荷物であり、行先を明記した荷札でもあった。堀田氏は慌てて、さてどうしようかと、とにかく駅員に相談してみようと、その貨物(トランク)を持ちあげて立った。その瞬間を前記の斎藤荷物手に見つかってしまった。酔ってはいたいし、うまく弁解も説明もつかず、斎藤さんにすっかり、かっぱらいと誤解されて、鉄道公安官に引渡されてしまったのだ。そこで公安官から質問されて答えると、すっかり単なる失敗であり、『犯意なきものと認む』という大変大げさな法律用語を調書に書かれた。が、矢張り規則通り、丸の内署へ廻されて(注:新聞記事では水上署)、検事の取調をさらに受けた。検事は堀田氏と話合ってみると、これは全くナンセンスなものであることが判明、すぐ釈放ということになったのである。検事は「あまり深酔いしないように……」とかなんとか言って堀田さんの肩を叩いて幕。
堀田はこの頃仕事がほとんどなく貧乏だったため、高等学校に就職しようとしていたのだが、この記事のせいでフイになりそうだ、と竹内にこぼしている。堀田はこの事件の四ヶ月ほど前、読売新聞の外報部に臨時嘱託として一週間ほど勤めていて、その時の経験をもとに「広場の孤独」を書き、事件から三ヶ月後に芥川賞を受賞。一躍売れっ子となっていった。
この窃盗事件は無意識の所業だったとしても、絶対に言い逃れのできない「盗み」もある。栗原裕一郎の『〈盗作〉の文学史』によれば、堀田は「朝日新聞」に『19階日本横丁』という娯楽小説を連載していた時、森本忠夫のエッセイ『奇妙な惑星から来た商人──海外における日本人の評判』から、引き写しに近い行為をしたという。「堀田は森本から素材に使うことの了承を取り付けてはいた」が、「あまりに『素材』そのままではないか」ということで、当時「夕刊フジ」が取り上げたらしい。窃盗事件から22年後の出来事だ。しかし、盗作問題としてさほど盛り上がることはなかったようで、97年には朝日文芸文庫にも入っている。一応、単行本のあとがきと文芸文庫の解説を見てみたが、森本のことについては触れられていなかった。
作家の写真を読む②
以前、ブログで「作家の写真を読む」という記事を書いたことがある。作家を被写体にした写真集の紹介だ。今回はそれの続きを書こうと思う。俺がどういう写真を好んでいるかということについては、前回の記事を参考にしてほしい。
相田昭 『作家の周辺』
相田昭は著書に付されたプロフィールによれば、
1946年、長崎生まれ。法政大学在学中はアラスカ・キングピーク峰に遠征するなどアルピニストとして活躍。卒業後もTBS報道局でアルバイトをしながら登山を続け、山岳写真を手がけるようになる。1974年、写真家として独立。雑誌の仕事で作家や画家のポートレイトを撮り始め、人物写真に傾倒する。1983年、小川国夫氏の著作『彼の故郷』に感銘をうけ、小川氏を被写体に写真展「彼の故郷」を開く。以来、今日まで数多くの作家や詩人、画家などと交流、その人間像に迫る写真を撮り続けている。
本書には相田による、作家との出会いについて書いたエッセイも掲載されており、そこに司修が相田の「彼の故郷」展に寄せた推薦文も引用されているのだが、それによると相田は作家の写真に集中するため、それまでの仕事を全て断ったという。しかし、そのおかげで、貧困に陥り、妻からは離縁状をつきつけられたとか。
食えなくなった相田は郵便局でアルバイトを始めたらしいのだが、小島信夫との出会いは、その配達員としてだった。相田は書籍小包をあえてポストに入れず、直接本人に渡すことで、話をすることができた。その際、
気むずかしい人を撮る時はこの本を読みなさいと、D.カーネギーの『人を動かす』という本を紹介してくれた。そして他の作家の所へ行っても、小島の所へ行って来たなどと言わないことだよと忠告され、「作家はシットぶかいからね」と念を押された
その後、仕事で小島を撮ると、小島はその時のことを「被写体」というタイトルで書いたようだが、「言いたいことはしっかりと僕の口から言わせている所もあって、作家は怖いと思った」と相田は書いていて、これは小島が相田の発言を捏造したということだろうか。
『作家の顔 「文壇エピソード写真館」』
本書は、芥川賞・直木賞第100回を記念して文藝春秋より出版された。掲載されているのは芥川賞・直木賞に関係する作家たちの写真(受賞者だけではなく選考委員も含む)だが、単なる肖像写真ではなく、雑誌の企画で撮った物も多く掲載されておりそれが結構バラエティーに富んでいて面白い。また、文壇の冠婚葬祭担当と呼ばれた写真家の樋口進(元文藝春秋写真部長)のインタビューもあって、読み物としても充実している。ちなみに、樋口によると撮りやすかった作家は、永井荷風・今東光・柴田錬三郎だったらしい。
村上龍(芥川賞受賞直後の写真。中学時代にサッカーをやっていたことから、この写真が企画された。場所は上智大学のグラウンド)
子供連れの古井由吉
鉄アレイで体を鍛える大江健三郎と妻ゆかり
猫をカゴに乗せてサイクリングする大江健三郎
自動車のタイヤを交換する三島由紀夫(運転が下手だったため、目的地に着いたら家に電話するようにと妻に言われていた)
鉄棒をする三島由紀夫
「私の一日亭主」という企画で、深沢七郎の店で働く大庭みな子
『私はこれになりたかった 著名人46人が憧れた仕事』
前述の『作家の顔』を読んでいたら、三島由紀夫が白バイ隊員のコスプレをした写真が掲載されていて、キャプションには「"私はこれになりたかった"のグラビアで白バイ隊員に扮した三島さん」とあって、早速「私はこれになりたかった」について調べると、ずばり『私はこれになりたかった』と題された写真集がヤフオクで見つかった。
落札すると、この写真集非売品らしく、そのためAmazonなんかにはデータが登録されていない。発行日は2016年3月25日。どこで配られたものなのかはよくわからない。
「私はこれになりたかった」というのは、「昭和38年から39年の2年間、『週刊文春』のトップページで連載されていた人気グラビアページ」で、文字通り「各界著名人が実はなりたくてしかたがなかった職業」に扮したもの。
本書はその二年間の中からの抜粋で、残念ながら三島由紀夫のそれは載っていない(遺族の許可がとれなかったのか?)。作家で掲載されているのは、井上ひさし、遠藤周作、梶山季之、山口瞳、吉屋信子、瀬戸内晴美など。作家以外では、中曾根康弘や植村直己、黒柳徹子、渡辺貞夫などもいる。
渥美清(郵便屋)
中曾根康弘(金魚売り)
若尾文子(美容師)
遠藤周作(易者)
井上ひさし(泥棒)
石原慎太郎・坂本忠雄『昔は面白かったな』を読んでいたら、石原の次のような発言にぶつかった。
石原 新潮社が、三島さんの写真集を出したでしょ。あの中で三島さんらしくていい写真っていうのは、まだ役人の頃に役所にでかける途中、どこかの駅で電車を待っている写真なんですよ。とっても平易で、気取ってなくて。あの人、他の写真は意識しているんだよ。僕ね、昔、三島さんに「石原君、ひとつ忠言するけど、これから色々写真を撮られるだろうけど、雑誌に載る写真は自分で選ばなきゃダメだぞ」って言われたの。「どうしてですか?」って聞いたら、「編集者ってのはみんな作家になりこそなった劣等感を持ってる奴らだからね、一番悪い写真を載せるんだ」って(笑)。
石原が言っているのは1990年に出た『グラフィカ三島由紀夫』のことだろう。俺はその文庫版である『写真集 三島由紀夫 '25~'70』を図書館で借りてみたが、石原の言っている写真は見つからなかったが、それに近いものはあった。
大蔵省に勤めながら小説を書いている頃で、キャプションにも「疲れを漂わす」と書かれている。
石原の『三島由紀夫の日蝕』も確認すると、こちらには正しいことが書かれていた。ついでに、石原の『グラフィカ三島由紀夫』に対する感想も引用しておこう。
妙な言い方だが、最近新潮社からもらった三島氏の写真集を眺めると、本来天才なるものは氏の写真のように、いかにも天才天才した顔はしていなかったのではないかと思われる。ランボオにしても、ラディゲにしても、ガロアや旧くはモーツァルトにしても、その肖像や写真の表情はもっとさり気ないもので眺めていてくたびれない。
他の作家なり誰ぞの写真と違って、三島氏のそれは眺め終わるといかにもくたびれる、というよりいささかうんざりさせられる。若い頃の写真だけは例外で自然だが、氏が世に出てその名声が確立された頃から写真には自意識がにじみだし、気負いがまざまざ露出して、それを無理と感じるか栄光の光彩ととるかは眺める者によるだろうが、私にはいかにもくたびれる見物だった。
あの写真集の中で私が一番好きだったのは、四谷見附付近で撮ったという、まだ官吏時代の、役所の仕事と家へ帰ってからの執筆との二重生活の疲れを漂わす二十代前半の写真で、それには名声を獲得する前の、人生に対する不安を秘めながらもある一途さを感じさせる孤独な青年が写し出されている。その写真には、不確定な青春のはかなさとそれ故の美しさがある。
石原が「電車」と言ったのは、作家と役人の二重生活に疲労した三島が、駅のホームから転落したというエピソードとごっちゃになったためだろう。ちなみに、上の写真以外で石原が最も好きだという三島の写真は、「市ヶ谷で死ぬ直前に、総監を縛った後、切腹するための準備をみんなに指図しているところを、自衛隊の写真班が脚立を立てて欄干の上から盗み撮りした」ものらしい(『昔は面白かったな』では「欄干」となっているが「欄間」の間違いだろう)。三島は写真を撮られていることにまったく気づかず、それゆえ「自意識」が消え、「雄々しくもあり」、「初めて美しくも」あった。石原はその写真を友人の佐々淳行(防衛施設庁長官)に見せてもらったというから、門外不出のものなのだろう。