ジョン・ネイスン 『ニッポン放浪記』
ジョン・ネイスンは三島の『午後の曳航』や大江の『個人的な体験』の翻訳者であり、映画『サマー・ソルジャー』の脚本家であり、アーティスト小田まゆみの元夫でもある。
しかし、僕にとってはやはり『三島由紀夫─ある評伝─』の作者だ。ネイスンの三島伝は、数ある三島の伝記の中で最も中立的であり、虚構や誇張に満ちた三島の生涯を知るうえで、必読である。
そんなネイスンの書いた自伝が、岩波書店から『ニッポン放浪記』というタイトルで翻訳された。原著の存在を知ってから、翻訳されるのをずっと楽しみにしていたので、手に入れ次第さっそく読んでみた。
ネイスンはニューヨークのローワー・イーストサイドで生まれ育ち、アリゾナ州の高校からハーバード大学に進学した。だが、ハーバードに蔓延する独特のスノッブ精神にうんざりしたネイスンは、その中心から外れるような道を歩き始める。彼が日本語に興味を持ったのは、日本人学生から「瘭疽」という漢字を教えてもらったことがきっかけだった。それから日本文学などの授業を取り、卒業後は来日して、津田塾大学などで英語を教えるようになった。それから、東大に入学し、『三島由紀夫─ある評伝─』の翻訳者である野口武彦と出会ったり、三島の小説を翻訳したりした。だが、三島との仲は、ネイスンが『絹と明察』の翻訳を断ったことから、断絶する。このことは『三島由紀夫─ある評伝─』にも書かれていたので、さほど新鮮味はなかった。
三島以外の小説家では、大江健三郎と最も仲が深かった。元々ネイスンが『絹と明察』の翻訳を断ったのも、『個人的な体験』の方を評価し、翻訳しようと思ったからだ。『個人的な体験』はネイスン訳で当初クノッフ社から出る予定だったが、突然大江が翻意したことで、グローブ・プレスから出版された。アメリカでは、研究者以外で、日本文学に注意を払う評論家は皆無だったが、書評家たちを接待する席で、大江がアメリカ文学への深い造詣を披露したことにより、彼らの心を掴み、書評に取り上げてもらえた。大江の英米文学に関する知識量には、ネイスンも舌を巻いている。『個人的な体験』はその後ネイスン脚本、勅使河原宏監督で映画化する企画が持ち上がったが、スポンサーがつかなかったためにとん挫。二人はそのまま『サマー・ソルジャー』の企画へと移った。
やがて、ネイスンと大江の交友に亀裂が入る出来事が起こる。小谷野敦の『江藤淳と大江健三郎』によれば、77年にグローブ・プレスから出た『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の序文の中で、ネイスンが嘘を書いたとして、絶縁したらしい。このことは『ニッポン放浪記』では触れられていないが、大江と十年近く疎遠になっていた時期もあったとし、再び交流するきっかけになったのは、大江がノーベル文学賞を取った時だと書いている。だが、2003年に『新しい人よ眼ざめよ』の英訳を出した後、再び大江から絶縁されたらしく、説明を求める手紙を書いても返事がなかったという。そこで「大江のことを昔から知っているある編集者」に相談すると、「よく起きることですよ。大江先生には絶交癖があるんです」と言われたとか。ちなみに、大江は安部公房とも絶交していて、それは安部が三島や石川淳、川端康成らと「文化大革命」に対する抗議文を発表したことが原因だ、とネイスンは書いている。しかし、大江の本を出して居る岩波が、大江と絶交した人の本を出しているのは、可笑しい。
ネイスンはキーンやサイデンステッカーのように文学研究・翻訳一筋の道をたどらなかった。裏方の人間でいることに飽き足らず、ドキュメンタリー監督として活動するようになり、あえて日本と距離を取るような時期もあった。しかし、興した会社は失敗し、最終的には日本文学の世界へと戻ってくることになる。波乱に富んだネイスンの人生は、「放浪」そのものだ。
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自伝には、ソニーの本を書いた時のトラブルも詳述されている。