作家の写真を読む③

 これまで、「作家の写真を読む」「作家の写真を読む②」と二回、主に文学者を被写体に選んだ写真集を紹介してきたのだが、ついにこの試みも三回目となる(だからといって、特別なにかあるわけじゃないけど)。ただ、前二回と違い、今回は作家の日常を写したような、面白い写真があまり見つからず、それが残念だった。

 

田村茂『素顔の文士たち』

 

 写真集の中でも「作家」をテーマにしたものは、恐らくかなりマイナーな分野だと思われるが、昨年河出書房新社から、『素顔の文士たち』というものが出版された。

 著者の田村茂は、広告写真、婦人雑誌のモード写真などからキャリアを始め、1967年には『北ベトナムの証言──みな殺し作戦の実態』で日本写真批評家協会賞特別賞を受賞している。

 1948年には、太宰治を被写体に27枚ほど写真を撮っていて、それが本書にも収録されている。文学好きなら、ニヒリスティックな感情に満ちた顔を左手で支えている太宰の写真を一度は見たことがあるだろう。安藤宏が巻末の解説で書いているとおり、田村の撮った物は、表情や振る舞いに演出が強く感じられ、あたかも太宰治が「太宰治」を演じているかのようである。これらの写真は八雲書店版『太宰治全集』(出版社が倒産したため中絶)のために撮られたもので、神話を作り上げようとする太宰の並々ならぬ努力がこちらに伝わってくる。

 

川端康成

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三島由紀夫

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高村光太郎

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坂口安吾

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水木しげる

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牧野富太郎

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丹羽文雄

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太宰治

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榊原和夫『榊原和夫の現代作家写真館』

 

 榊原和夫は、本書に寄せられた川西政明の序文によると、元週刊読書人の編集者で、それからフリーのカメラマンに転身するという経歴を持つ人物らしい。1968年には『日本の作家たち』という写真集を出版している。

『現代作家写真館』は、「公募ガイド」の連載をまとめたもので、雑誌の性質ゆえか、撮影場所は仕事場で、作家志望者に向けたメッセージや、手書きの原稿用紙の写真まで掲載されている。

 

遠藤周作

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佐多稲子

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佐伯一麦

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島田雅彦

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筒井康隆

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立松和平 

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埴谷雄高

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古井由吉

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野上透『文士一瞬』

 

 野上透は本名根岸秀迪といい、1958年、日芸の写真科から講談社の写真部に就職し、キャリアをスタートさせた。それから六年後に講談社を退職、フリーとなり、1977年に『女人古寺巡礼』で講談社出版文化賞を受賞。
 作家の写真は、講談社時代、『群像』の編集長大久保房男からの依頼で撮るようにになり、講談社を退職後も、「われらの文学」、「現代の文学」といった講談社より出版された文学全集に収録する写真を手掛けた。本書は野上の死後出版されたものである。

 

江藤淳

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大江健三郎

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遠藤周作

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開高健

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島田雅彦

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野坂昭如

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深沢七郎

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藤枝静男

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三島由紀夫

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村上春樹

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素顔の文士たち

素顔の文士たち

  • 作者:田村茂
  • 発売日: 2019/11/28
  • メディア: 単行本
 

 

榊原和夫の現代作家写真館

榊原和夫の現代作家写真館

  • メディア: 単行本
 

  

文士一瞬 野上透写真集

文士一瞬 野上透写真集

  • 発売日: 2006/01/20
  • メディア: 大型本
 

 

本当は怖い文学賞

 文学賞というのは表向きその本の実力によって選ばれていることになっているが、無論、人間がやっていることなので、1から10までフェアということは有り得ない。『万延元年のフットボール』が谷崎潤一郎賞をとるという納得のいく結果もあれば、功労賞としか思えないような凡作が受賞することもある。そこには、選考委員や出版社の思惑が複雑に絡み、独特の力学が発揮される。文壇、演劇界のボスとして君臨した久保田万太郎にいたっては、自宅の茶の間で「今度は誰にやろうかな」と言っていたらしい(後藤杜三『わが久保田万太郎』)。

 こうした「賞」における政治的バランスを念頭に入れながら、結果を予想するという試みを行ったのが、大森望豊崎由美のコンビによる「文学賞メッタ斬り」で、そうした見方が一般読者にも広がる契機となった(映画の世界でも、アカデミー賞の時期には似たようなことが行われている)。

 また、「文学賞」という事象そのものについて研究したのが、川口則弘の諸著作、小谷野敦の『文学賞の光と影』、柏倉康夫の『ノーベル文学賞―作家とその時代』などで、どれも勉強になる。

 俺は大学生ぐらいから本格的に小説家になりたいと思うようになり、その過程で、国内外の文学賞に興味を持ち、特に海外文学においては、ノーベル文学賞はもちろん、全米図書賞やピューリッツァー賞の受賞作などから作家の名前を覚えていった。それと同じころ、「文学賞メッタ斬り」を知り、20代中盤からは、文学史への興味が強まったので、過去の文学賞のあれこれについても興味を持つようになった

 元々、ゴシップ好きなので、文学関連の本を読んでいても、自然にそういうところが目につき、自分でも少しずつ事例を収集し始めた。そして、それがそこそこ溜まったので、年代順・箇条書き式で、披露しようと思った次第である(日本の文学賞については、川口則弘氏のサイトを大いに参考、引用しています)。

 

第1回文藝懇話会賞(1934年度)

受賞作:横光利一『紋章』

    室生犀星『あにいもうと』

この賞は、満州事変以降の言論統制の強化を象徴するものとして知られている。文藝懇話会の発起人は松本学警保局長で、その目的は文学者の統制にあった。松本の主催する右翼的文化団体『日本文化聯盟』の出資により、機関誌の創刊と文学賞の創設が行われ、第1回目の受賞者に横光利一室生犀星が選ばれた(高見順『昭和文学盛衰史』)。

しかし、実はこの時、島木健作『獄』が投票数で室生を上回っていたにもかかわらず、島木が左翼的だという理由から、室生が繰り上げ当選となり、そのことが外部に漏れて大騒ぎになった。
この時、松本の意を汲んで島木の落選を決定・発表したのが、機関誌の編集責任者を務めた上司小剣と言われている(楢崎勤『作家の舞台裏』)。

 

第1回ボリンゲン賞(1948年度)

受賞作:エズラ・パウンド『ピザン・キャントウズ』

ボリンゲン賞はポール・メロンによって創設された詩の賞で、第1回はエズラ・パウンドの『ピザン・キャントウズ』に与えられた。ファシズムに好意的だったパウンドは第二次大戦中イタリアで枢軸国を擁護する放送を行い、反逆罪でアメリカ軍によって逮捕されていた。そして、精神鑑定の結果、精神異常との診断が出て、受賞当時聖エリザベス病院に入院していた。

裁判こそ行われなかったものの、戦争犯罪人として見られていたパウンドが受賞したため、議論が沸騰した。また、パウンドはその放送の中で反ユダヤ主義的発言も行っていたことから、人種問題も含んでいた。

選考委員は14名いたが、パウンドの受賞に賛成したのは11人。賛成派のメンバーの一人にT・S・エリオットがおり、また「パウンド門下の同級生たち」が選考委員の中に選ばれていたことから、はじめに結論ありきの議論だったとされている(堀邦維『ニューヨーク知識人』)。

 

第13回読売文学賞(1961年度)

受賞作:竹山道雄『ヨーロッパの旅』[正](続)等の海外紀行文(評論・伝記賞)

三田文学』において、秋山駿がインタビュアーを務めた、「私の文学を語る」という企画があり、第一回目が江藤淳で、二回目が大江健三郎だった。1967年に出た大江の『万延元年のフットボール』の評価をめぐり、二人は決定的に対立し、秋山は双方から互いの批判を聞かされることになった。

その時、大江が暴露したのが、「かれが「小林秀雄」で読売文学賞に落ちた時、かれの銀行員の父親が、選考委員の佐藤春夫に抗議した」という話で、これは二人の対談が収録された『対談・私の文学』では削除されている。

 

第5回毎日芸術賞(1963年度)

受賞作:舟橋聖一『ある女の遠景』(文学)

戦後、舟橋聖一は、中間小説の分野において、丹羽文雄と並ぶ売れっ子大物作家だった。だが、純文学へのこだわりを捨てることはなく、文芸誌としては後発で歴史の浅かった『群像』に、格安の原稿料で執筆したのが『ある女の遠景』で、毎日芸術賞を受賞した。が、毎日芸術賞には大賞というのもあり、これに選出されなかったことについて、舟橋はひどく立腹し、受賞を拒否しようとも考えたが、その年の大賞が該当なしだったことで、何とか納得した(中島和夫『忘れえぬこと 忘れたきこと』)。

 

第18回野間文芸賞(1965年度)

受賞作:永井龍男『一個その他』

野口冨士男の息子、平井一麥が書いた『六十一歳の大学生、父 野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』という実質的な野口冨士男伝に、「『秋声伝』は、講談社の「野間賞」の候補にもあがった。しかし、ある身近な方の妨害で受賞できなかった」と書いてある。

当時の野間賞の選考委員で野口と近く、かつその受賞を妨害しそうな人と言えば、「行動」、「あらくれ」、「文芸時代」、「キアラの会」、「風景」で一緒だった舟橋聖一だが、選評を読んでいないので確証は持てない。

 

第2回谷崎潤一郎賞(1966年度)

受賞作:遠藤周作『沈黙』

三島由紀夫はなぜか野坂昭如の『エロ事師たち』をかなり評価していて、クノップ社が日本文学の翻訳を計画した時は自らそれを推薦し、谷崎潤一郎賞の候補に上がった時も擁護したりした。翻訳の方はうまくいったが、谷崎賞丹羽文雄の反対で落選(野坂昭如『文壇』)。そのすぐ後で、野坂は直木賞を受賞した。

 

第3回太宰治賞(1967年度)

受賞作:一色次郎『青幻記』

『短篇小説の快楽』(角川文庫)に収録された、荒俣宏中沢新一金井美恵子による、短編小説をめぐる鼎談の中で、金井が「石川淳は、どう?」と二人に聞く場面がある。そして、三人とも石川を評価しないことで一致するが、そこで金井が「私、十九歳の時「太宰治賞」の佳作になったんだけど、その作品を強く推してくれたのが石川淳だったので恩人なの。だからあまり悪口は言いたくないんだけど(笑)」と発言している。実際は、佳作ではなく最終候補だが、太宰治賞を運営している筑摩書房が出していた雑誌『展望』には受賞作である『青幻記』と一緒に載ったらしい。

金井が太宰治賞に応募した時のことについて、当時筑摩書房に努めていた野原一夫が『編集者三十年』の中で書いている。野原によれば、第一次銓衡の際、一人の編集者が「A」、もうひとりが「C」をつけた作品があった。評価が極端に割れたので、野原にも見て欲しいという。それが金井の「愛の生活」だった。野原はそれを評価し、一次銓衡を通過させた。そして、「愛の生活」は最終候補にまで残り、野原としてはそれが受賞することを望んだ。そこで、野原は高崎に住んでいた金井を呼び出し、欠点だと思ったところを一部書き直させた。が、「愛の生活」は落選。受賞者である一色次郎は、大屋典一の名で、それまでに二度直木賞にノミネートされている、新人として見るには筆歴の長い人だった。そつのない作品を書いた一色より、若くて、才能のきらめきが見られる金井が受賞すべきだったと野原は同書で書いている。

 

第25回全米図書賞(1974年)
受賞作:アイザック・バシェヴィス・シンガー『羽の冠』(フィクション)
    トマス・ピンチョン『重力の虹』

トルーマン・カポーティはローレスン・グローベルによるインタビュー本『カポーティとの対話』文藝春秋)の中で、トマス・ピンチョンの評価について問われ、「身の毛がよだつね」と答えた後、全米図書賞の審査員をした時『重力の虹』の受賞に反対し、そのせいでピンチョンは落選したと喋っているが、実際は受賞している。その際、ドナルド・バーセルミも候補だったようなことを言っているが、これも公式ブログを確認する限り間違いだ(バーセルミは選考委員)。

しかし、このインタビュー本、カポーティの勝手気ままな放言を楽しむことはできるものの、事実関係において眉唾物のところが多く、信頼しないほうが良いだろう。

 

第12回日本文学大賞(1980年度)

受賞作:古井由吉『栖』

    結城信一『空の細道』

阿川弘之『国を思えば腹が立つ』には、大江健三郎からバーでウィスキーグラスを投げつけられるところが出てくる。元々強い因縁のあった二人だが、今回の事件の発端となったのは、新潮社が主催する日本文学大賞だった。阿川はこの時選考委員で、候補に上がっていた大江の作品を評価していなかった(候補は公開されていないが、時期的に『同時代ゲーム』)。それで、古井と結城の受賞となったわけだが、大江からすれば阿川に落とされたと思ったことだろう。

大江は新潮新人賞の方の選考委員で、どちらの賞も新潮社が運営していたことから、選考会終了後、打ち上げ先のバーで顔を合わせることになった。そこで、大江は阿川にからみ、あしらわれると、席に戻ると見せかけグラスを叩きつけた。阿川は唇から流血し、騒ぎになったが、大江は逃げた。

大江は酒乱として知られていて、この時の行動も酒が影響していたのかもしれない。

 

第15回日本文学大賞(1983年度)

受賞作:三浦哲郎『少年讃歌』

江藤淳のエッセイ集『西御門雑記』に「ふた通りの『文芸時評』」というエッセイが収められている。「ある文学賞の選考委員会の席上」で、ある選考委員が文芸時評ではべた褒めしていた本を、「ここに残っている作品のなかでは、なんといってもこれが一番文学性が低いですからね」と突き放したというのだ。びっくりした他の委員が突っ込んだところ、「いやァ、批評にもいろいろありましてね」と言い逃れた。また別の委員が、「いずれにせよ、いまのご意見が、地声というわけでしょう」と言うと、突っ込んだ選考委員が、「困るなあ、そんな、裏声で『文芸時評』を書かれちゃあ!」と叫び、一同爆笑という流れになったという。

小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』によれば、これは新潮社が主催する日本文学大賞での出来事で、問題の発言をした委員は篠田一士、作品は丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』だと、江藤淳のエッセイに散りばめられたヒントから答えを出している。

 

第21回谷崎潤一郎賞(1985年年度)
受賞作:村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

この年の谷崎潤一郎賞は、三浦哲郎の『白夜を旅する人々』が大本命だったが、谷崎賞の前に、大佛次郎賞に決まったため、二番手だった村上の作品が「繰上げ当選」となった(安原顯『決定版 編集者の仕事』)。

 

第42回読売文学賞(1990年度)

受賞作:大庭みな子『津田梅子』(評論・伝記賞)

村松剛『三島由紀夫の世界』という、三島の同性愛を完全に否定した本がある。三島の同性愛については、百歩譲ってグレーゾーンだと言うことはできても、同性愛者ではなかったと断言するのはかなり難しいはずなのだが、それをやったのが村松である。しかも、村松は三島が同性愛者であることを知っていてそう書いたのだ。

佐伯彰一『回想 私の出会った作家たち』に、村松のその本が、佐伯が選考委員をつとめていた「さる文学賞の候補」になった時のことが描かれていて、その場に遠藤周作もいたというから、間違いなく読売文学賞のことと思われる。

佐伯と遠藤は村松と『批評』という同人誌をやっていた仲だから、二人は村松を擁護したかったのだが、当然他の選考委員はそんな本を推すはずもなく、落選した。

 

第44回野間文芸賞(1991年度)

受賞作:河野多恵子『みいら採り猟奇譚』

吉行淳之介石原慎太郎は不仲で、1989年に『文學界』で行われた大座談会「賞ハ世ニツレ 芥川賞の54年に見る「昭和」の世相と文壇」では、石原が吉行に積極的に噛み付いている。

また、『新潮』の元編集長坂本忠雄との対談本『昔は面白かったな 回想の文壇交友録』では、石原の『わが人生の時の時』がある文学賞の候補になった際、吉行が受賞に反対したことで落選したとある。その賞とは、どうやら野間文芸賞らしい(『ユリイカ』に掲載された森元考との対談による)。

しかし、野間文芸賞はある時期から候補作を発表しなくなったので推測するしかないが、『わが人生の時の時』の刊行が1990年2月で、時期的には第43回(1990年度)の候補作の方がふさわしいように思えるのだが、第43回の時吉行は欠席している。吉行は、石原の小説を「こんなもの文学じゃない」と言ったらしいから、石原のそれは、吉行が選考会に出席した第44回の候補だったのではないかと思う。

なぜ村松剛は三島由紀夫の同性愛を否定したのか?

三島由紀夫=ゲイ」という等式を疑う人は、今ではほとんどいないと思われる。俺も三島由紀夫の文章や、彼について書かれた物を読む時は、そのこと意識している。というか、半ば常識として捉えているといったほうが正しいか。

 だから、週刊誌『平凡パンチ』の編集者で、三島由紀夫を担当していた椎根和が書いた『完全版 平凡パンチ三島由紀夫』で、次のような文章を読んだ時は少し驚いたのだった。

 

 三島の剣道の弟子として、稽古をつけてもらった約一年強の間に、約50回ほど、一緒に風呂に入り、先輩に対する礼儀として背中を流した。しかし一度も、触られたり、なぜられたりすることはなかった。三島がホモだという噂は知っていたが、あれは小説『仮面の告白』を書くための取材のひとつだった、と思いこんでいた。

 

 まあ、ただの編集者に対し、警戒心の強い三島がそんなあからさまなことはしないだろうと思うのだが、「三島の同性愛はポーズではないのか?」という感覚があったことは事実だ(同じことはルー・リードについても言われていた)。鉢の木会で三島と交友のあった大岡昇平にしても、「彼の男色が本物か文学的擬態か」ということを「わが師わが友」の中で書いている。三島が「ブランスウィック」というゲイバーに通っていたのは有名だが、それも作品の取材と称し、敢えて他人と一緒に訪れるという、アリバイ作りにも似たことをしていた。

 が、三島の文壇デビューのきっかけとなった文芸誌『人間』の編集長であった木村徳三に対しては、前の二人よりも心を許していたのか、同性愛者であることを匂わせる手紙ややりとりをしていて、『仮面の告白』を準備していた三島からその「倒錯性向」を聞かされても、「格別の愕きもなかった」という(『文芸編集者の戦中戦後』)。

 三島が男色について取り組んだ小説は、『仮面の告白』と『禁色』だけだが、前者は華麗な文体と観念的な内容から私小説に見せかけたフィクションとして受け止められ(それに若いころの同性愛というのは決して珍しいことではない)、後者は同性愛が単なる意匠でしかなかった。『新恋愛講座』というエッセイには、「同性愛」という項目があるが、これも完全に他人事として書かれている。それに結婚もしたから、同時代の人間には「三島の男色は見せかけではないか?」と見えても不思議ではない。三島本人が、あえて人を惑わすような言動をしていたので、余計混乱が巻き起こった。人を煙に巻くのが、三島のある種の処世術であった。そのせいで、ボディビルや楯の会も半分冗談として受け止められたのだが。

 みなが決定的な判断を下しかねている中、三島の死から四年後に出版されたジョン・ネイスンの『三島由紀夫──ある評伝──』がはっきりと三島の同性愛について記述した。そこには、三島が朝日新聞特別通信員として海外旅行した際、訪問先のブラジルで「十七歳前後の少年」をホテルに連れ込んでいたと書かれている。あと、1988年に出た、ジェラルド・クラークの『カポーティ』にも、1957年、三島がアメリカを訪れた際、カポーティに男の斡旋を頼んだということが暴露されていた。

 しかし、1990年、三島の同性愛を猛烈に否定する書物が現れた。それが三島の友人であった村松剛の『三島由紀夫の世界』である。そもそも村松の母と三島の母は友人同士だったらしいが、村松と三島の仲が深まったのは、佐伯彰一によると、プラトンの翻訳者として知られる田中美知太郎が理事長をつとめた保守グループ「日本文化会議」への参加がきっかけらしい(『回想 私の出会った作家たち』)。学生運動が激しくなるのに比例して、両者とも政治的な傾向を強め、民族派雑誌『論争ジャーナル』を三島が支援した際、村松もそれに加わった。

 そういうわけで、二人のつながりは文学よりも政治の方にあった。そもそも、村松が規範としていた文学者の一人はド・ゴール内閣で情報大臣を務めたアンドレ・マルローであり、『評伝アンドレ・マルロオ』では、「マルロオの作品の最大の魅力は、その男らしさにある。『征服者』『王道』『人間の条件』を通じて主人公の共通点は、彼らがいずれも荒々しい力への欲望に憑かれていることだろう。そのためには、彼らはすべてを犠牲にする」 と述べている。だが、三島はマルローのような外国を舞台とした冒険小説を書いていないし、そういう体験もない。村松自身は言行を一致させるためか、ベトナム戦争の視察に赴いたこともある。石原慎太郎開高健といった小説家が前線に行くことはあったが、文芸評論家でそういうことした人は珍しいのではないか。

 もっとも、三島とマルローの間に共通点がないこともない。二人とも「死」をテーマにした文学を書き、切腹に魅了されていた。『アンドレ・マルロオとその時代』からの孫引きになるが、マルローは戦前来日した際、「ハラキリにおいて、《死》は消滅する。死という人間的諸条件を、或る人間の意志が、自由に否定する行為であるからだ。ハラキリにおいては、より高き倫理価値が、自己にたいする超越のかたちによって、死にたいする克服のかたちによって肯定されているからである」と言ったと小松清が書いているらしい。

 村松、三島、マルローの間ではっきりと一致するのは、全員が家庭的な思考を嫌悪していること。マルローは妻クララと共にカンボジアまで美術品の採集(実質窃盗)に行き、その経験をもとに『王道』を書いたが、そこでは妻の存在が消され、男同士の冒険譚になっている。村松は「再説 女性的時代を排す」の中で、「しかしぼくはやはり、家庭という穴をこえたもの、自分を捧げるもの、男性的なもの、一口にいって哲学を、求める人間の心と、その能力とを信じたい」と書き、三島もそれに同感した旨を葉書で知らせた。余談だが、深沢七郎は、三島の死後、「だけどもし、オレにカミサンがいて……女の子が生まれ、三島由紀夫みたいな人のとこへ嫁にやって、あんな死にかたしたら、オレはおこるね。自分のオカミサンをないがしろにして……失礼でしょう」と書いた。

「男性的なもの」を好んだ村松だが、それが「同性愛」となると、途端に否定的になるのはどういうことだろうか。『三島由紀夫の世界』には次のような言葉が並ぶ(太字はすべて引用者による)。

 

 三島の母堂の倭文重さんは彼の初恋について質問を受けると、

 ──『假面の告白』に書いてあるとおりです

 つねに、そういっておられた。回想録である『わが思春期』よりも記述はむしろ『假面の告白』の方が全体としてくわしく、ぼく自身がもつ若干の知識に照らしても、まさに経緯はそこに書かれているとおりだったと思われる。ただ一点、主人公の同性愛に仕立ててあるということを除いては。

 

『假面の告白』が「能ふかぎり正確さを期した性的自伝である」ということばは、それ自体がフィクションであることはいうまでもない。だが、性的倒錯にかかわる部分を除けば、この小説は昭和二十三年ころまでの彼の生涯を、きわめて忠実に再現している。

 

 また、三島が木村徳三に宛てて出した「ブランスウイックのボオイの姿が忘れられず、溜息ばかり出て、思春期が再發したみたい。戀心っていぢらしいものですな、ヤレヤレ」という手紙を引用した後で、

 

 ブランスウイックのボーイへの「戀」なるものが、本当だったか否かはかなり疑わしい。文章の調子から見ても、はなしを面白く仕立てて悪戯をたのしんでいるという気配が感じられる。このころ三島と頻繁に会っていた桂芳久は、ブランスウイックにも新橋の十仁病院のそばにあったアメリカ兵が大勢あつまる男色酒場にも彼といくどか同行していたけれど、三島がこういう場処で男色のつきあいに加わったことはなかったと断言している。(三島が一時的にせよ同性愛にとらわれていたこと自体を、桂氏は信じていない。)

 

 当然ながら、村松のこうした文章には、疑問・反論が寄せられた。映画『憂国』の演出を担当した、堂本正樹は、『回想 回転扉の三島由紀夫』で、村松は三島の同性愛を知っていたと告発している。

 

 さて私がNLTの劇団に入ったのは良いが、いずくも同じ内部の人間感情の軋轢で劇団は分裂し、三島と我々は新しく「浪曼劇場」というのを作った。マスコミの披露パーティーには思ったほど記者があつまらず、三島はいらいらした。そうなると関係者も誰も近寄らず、三島はポツンとしていた。その時村松剛が私に、「ホラ、三島さんを一人にしちゃいけない。君がそばについていなくては」というので、「それなら親友の貴方でしょう」と答えると、「いやこういう時はおなじシンユーでもウ冠に限る」と私を押した。「ウ冠」とは何のことなのか、私にはわからなかった。後に三島に尋ねると、「ウ冠」とは「寝友」ということで、村松の秘語だと教えてくれた。……こういう事を言いながら、後で村松が『三島由紀夫の世界』を書いて、三島の同性愛を否定したのは、文芸評論家として自殺行為だろう。

 

 なぜ村松がここまで三島の同性愛を否定しようとしたのか。その理由について佐伯彰一は、「三島さんの政治的パトスに村松が強く共感、また肩入れしすぎた結果、これを出来るだけ純粋無垢なかたちで護りぬきたい、一切の異質的な要素は、忌むべきケガレとして斥けたいという衝動にかられたのではなかったか」と言い、同じく『批評』の同人だった大久保典夫は、村松保田與重郎や蓮田善明について無知だったとし、「おそらく剛さんには日本浪曼派的なものへの強い異和感があって、知識も付焼刃の域を出なかったのだろう。それらが『三島由紀夫の世界』という彼の渾身の力作を歪なものにした」と書いている(『昭和文学への証言──私の敗戦後文壇史』)。

 二人とも村松にそのことを直接たずねたわけではないので、「かもしれない」という仮説に留めている(というか、聞ける雰囲気ではなかったようだ)。村松には『ユダヤ人』や『教養としてのキリスト教』という著作があり、もしかしたら、レヴィ記における同性愛否定に影響を受けていたのだろうか。

 三島の同性愛については、愛人だった福島次郎が『三島由紀夫──剣と寒梅』を1998年に出して以降、決定的な事実となった。 

 

三島由紀夫の世界 (新潮文庫)
 

  

仮面の告白 (新潮文庫)
 

 

完全版 平凡パンチの三島由紀夫

完全版 平凡パンチの三島由紀夫

  • 作者:椎根 和
  • 発売日: 2012/10/05
  • メディア: 単行本
 

 

文芸編集者の戦中戦後

文芸編集者の戦中戦後

 

  

三島由紀夫―ある評伝
 

 

  

 

王道 (講談社文芸文庫)

王道 (講談社文芸文庫)

 

  

  

回想 回転扉の三島由紀夫 (文春新書)

回想 回転扉の三島由紀夫 (文春新書)

  • 作者:堂本 正樹
  • 発売日: 2005/11/18
  • メディア: 新書
 

 

 

三島由紀夫―剣と寒紅

三島由紀夫―剣と寒紅

 

 

「文壇史」を書けなかった坪内祐三

 坪内祐三が死んだ時、毎日新聞追悼文が出て、見出しに「無頼派」という言葉が使われていた。

 自分はそれを見て、ひどく違和感を覚えた。なぜなら、俺の中での坪内祐三とは、早稲田大学図書館で明治時代の雑誌を渉猟する人であり、『変死するアメリカ作家たち』や『雑読系』といった著書で、文学史の中でもマイナーな人物に光を当てる勤勉な読書家というイメージだったからだ。

 いや、正確に言えば、酒を飲まない俺にとって、そういう方面の仕事しか興味がなかった。だから、彼が死ぬまで、タイトルに「酒」が入った著作を読んだことがなかったし、そもそも坪内に「無頼派」的なものを求めていなかった。だから、「酒」の話から始まる毎日新聞の追悼文を読んで、世間はそっちに注目するのかと思った。

 もちろん、坪内の著作に『酒中日記』というのがあって、映画化までされているのは知っていたが、坪内にとってそれらの仕事は「余技」的なものなのだろうと勝手に推測していた。

 といっても、文芸関連の著作で、ここ最近「代表作」と言えるようなものを書いていたかというと、疑わしい。「坪内ならこれぐらいのものはいつでも書ける」というようものが続いていて、物足りなく感じることも多かった。

 俺が生前の坪内に期待していたのは、彼が伊藤整の衣鉢を継いで、新しい『日本文壇史』を書いてくれることだった。知識量的には申し分ないし、彼ほどの人気があれば、そのテーマで連載を持つことも可能だと思ったからだ。また、「文壇史」という枠を与えられてこそ、持っている能力を最大限に発揮できるんじゃないかとも妄想し、文壇史に正面からぶつかっていくことにも期待していた。

 だが、今回、『昼夜日記』や『酒中日記』を読んでみて、坪内は「文壇史」を書くことよりも、「文壇史」の登場人物になることを選んだ、という風に感じた。吉行淳之介永井荷風のハイブリッドというべきか。

 坪内は筆一本で食っていくにあたり、意識して「坪内祐三」というブランドを作り上げたと思う。例えば、普通だったら「地味」と一蹴されそうな本を、「シブい」と言い換え、新たな価値を付与したり、あえて「古くさいぞ私は」と言ってみたり、日記において自ら「ツボちゃん」と名乗ったりするのも、キャラ作り・ブランド作りの一環だ。特にユニークだったのが、「無頼派」と「読書家」を両立させたことで、どちらか片方だけだったら、長く売れっ子であることは難しかっただろう。坪内は、「新人類」と呼ばれた中森明夫野々村文宏より2、3歳年上だが、文筆家デビューは彼らより遅く、「若さ」という武器が最初からなかったから、どうすれば世間から注目されるかということを考える必要があった。

 さて、その「無頼派」の評価を確立させた『酒中日記』だが、その著作の主人公である「坪内祐三」という人間に対し、俺は良い印象を持たなかった。なぜなら、あまりに業界的で、如才なく、処世術に長けた男の姿をそこに見出したからで、それは「文学的」とは言い難いものだった。特に、自分は「団塊の世代」以上の男たちから好かれるとか、講談社の編集者から相撲の良い桝席のチケットをもらい、「もちろんもちろん野間社長ありがとう(社長、いつか一緒に大相撲見ましょうよ)」と書いたりするところなんか(引用は『続 酒中日記』より)。この連載に出たがる編集者が多かったというのも、多分に業界的だ。

 坪内は大久保房雄の『理想の文壇を』という本の書評で(『シブい本』に所収)、「表面に出て来る批評がよくて、裏で囁かれる批評が悪いのは、その作家にとって最も悪い状況である」という中村光夫の言葉を、大久保著の中から紹介していたが、その裏の批評が現れる場所の一つは、坪内が通った「文壇バー」であろう。石原慎太郎はある座談会で吉行に向かい、「お前、飲み屋で人の作品けなしたりするのやめろよ。姑息でいやらしいやつだな」と言ったらしいが(『昔は面白かったな 回想の文壇交友録』)、坪内はそういう場でオフレコの批評が行われているのを知っていたからこそ、バー通いを熱心に行っていたのではないか。川端康成なんか、酒を飲めないにも関わらず、文壇バーに顔を出していたが、それはやはり「監視」的な意味合いもあったはずだ。伊藤整は、「酒についての意見」で、「私は田舎の中学校の教員仲間と酒を飲むことによって、酒の飲み方、酒の世間的な飲み方を知り、酒と噓と妥協とが切り離されないものであることを知った」と書いたが、坪内の『酒中日記』が人気だったのは、そういうことを書かなかったからだろう。

 文筆家である坪内にとって、最も深刻だったのは、その酒量だ。2014年5月8日の酒中日記では、「五十六歳の誕生日。体調きわめて悪し。血をけっこう吐く」とある(引用は『昼夜日記』より)。が、その後も記憶がなるなるまで飲むということを何度も続けている。還暦が近い人間の飲み方とは思えないし、依存していたのではないか。延江浩によると酒乱でもあったらしい*1。こういう生活をしていたら、いつ潰れてもおかしくはない。福田和也が『新潮』に寄せた追悼文で、「僕が長生きして、文壇について語ると、それが全て真実になる。文壇史を捏造しよう」という坪内の言葉を紹介していたが、大量の酒を飲みながら、自分が「長生き」することを前提で生活していたのも、見通しが甘かった。伊藤整が、大久保房雄に依頼されて『日本文壇史』を書き始めたのは47歳の時で、本格的な仕事を残すとしたら、それぐらいには始めていないといけないのかもしれない。当時の伊藤は売れっ子作家だったが、まず『日本文壇史』を書いてから、他の仕事に取り掛かったという。

 高橋英夫が、『日本文壇史8』(講談社文芸文庫)の解説で、「伊藤整にとっては『日本文壇史』を書き続けることと、彼自身が「文壇」人として生きてゆくことは完璧に一体化していた」と書いているが、坪内にもそういった生き方を選択してほしかった。結局、坪内は持っている実力をフルに出さないまま逝ってしまったように俺には思える。 

 

変死するアメリカ作家たち

変死するアメリカ作家たち

 

   

シブい本

シブい本

 

 

続・酒中日記

続・酒中日記

  • 作者:坪内 祐三
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2014/10/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  

昼夜日記

昼夜日記

 

   

伊藤整全集〈23〉 (1974年)

伊藤整全集〈23〉 (1974年)

  • 作者:伊藤 整
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1974
  • メディア:
 

 

昔は面白かったな回想の文壇交友録 (新潮新書)

昔は面白かったな回想の文壇交友録 (新潮新書)

 

  

日本文壇史8 日露戦争の時代 (講談社文芸文庫)

日本文壇史8 日露戦争の時代 (講談社文芸文庫)

  • 作者:伊藤 整
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1996/02/09
  • メディア: 文庫
 

 

堀田善衛窃盗事件の真相?

 以前、小谷野敦のブログで堀田善衛が窃盗で捕まったことを伝える新聞記事の引用を読んだ。

 

jun-jun1965.hatenablog.com

 

 以来、そのことが記憶の片隅にあったのだが、先日、読売新聞で文化部の記者だった竹内良夫の『文壇のセンセイたち』という本を読んでいたら、その事件の詳細について書かれていた。

 

 堀田さんは二十三日の夜、新潮社へ依頼された原稿を届けた。その日はその原稿のために、二度徹夜をして、疲れていた体で、その新潮社の記者と、新橋へ行って飲んだ。あまり寝ていないので、酔いはすぐ廻って、すっかり泥酔してしまった。新橋駅で記者と別れて、逗子へ帰るため、横須賀線に乗りかえようと、品川駅で降りた。あまりの泥酔で、駅の荷物運送車に乗りこんでしまい、無意識で傍らの荷札を手でむしっていた。ハッと気がつくと、それは重要な他人の荷物であり、行先を明記した荷札でもあった。堀田氏は慌てて、さてどうしようかと、とにかく駅員に相談してみようと、その貨物(トランク)を持ちあげて立った。その瞬間を前記の斎藤荷物手に見つかってしまった。酔ってはいたいし、うまく弁解も説明もつかず、斎藤さんにすっかり、かっぱらいと誤解されて、鉄道公安官に引渡されてしまったのだ。そこで公安官から質問されて答えると、すっかり単なる失敗であり、『犯意なきものと認む』という大変大げさな法律用語を調書に書かれた。が、矢張り規則通り、丸の内署へ廻されて(注:新聞記事では水上署)、検事の取調をさらに受けた。検事は堀田氏と話合ってみると、これは全くナンセンスなものであることが判明、すぐ釈放ということになったのである。検事は「あまり深酔いしないように……」とかなんとか言って堀田さんの肩を叩いて幕。

 

 堀田はこの頃仕事がほとんどなく貧乏だったため、高等学校に就職しようとしていたのだが、この記事のせいでフイになりそうだ、と竹内にこぼしている。堀田はこの事件の四ヶ月ほど前、読売新聞の外報部に臨時嘱託として一週間ほど勤めていて、その時の経験をもとに「広場の孤独」を書き、事件から三ヶ月後に芥川賞を受賞。一躍売れっ子となっていった。

 この窃盗事件は無意識の所業だったとしても、絶対に言い逃れのできない「盗み」もある。栗原裕一郎の『〈盗作〉の文学史』によれば、堀田は「朝日新聞」に『19階日本横丁』という娯楽小説を連載していた時、森本忠夫のエッセイ『奇妙な惑星から来た商人──海外における日本人の評判』から、引き写しに近い行為をしたという。「堀田は森本から素材に使うことの了承を取り付けてはいた」が、「あまりに『素材』そのままではないか」ということで、当時「夕刊フジ」が取り上げたらしい。窃盗事件から22年後の出来事だ。しかし、盗作問題としてさほど盛り上がることはなかったようで、97年には朝日文芸文庫にも入っている。一応、単行本のあとがきと文芸文庫の解説を見てみたが、森本のことについては触れられていなかった。

 

 

広場の孤独 (新潮文庫 ほ 2-1)

広場の孤独 (新潮文庫 ほ 2-1)

  • 作者:堀田 善衞
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1953/09
  • メディア: 文庫
 

  

19階日本横丁 (朝日文芸文庫)

19階日本横丁 (朝日文芸文庫)

 

  

奇妙な惑星から来た商人―海外における日本人の評判 (1970年)
 

  

〈盗作〉の文学史

〈盗作〉の文学史

 

 

作家の写真を読む②

 以前、ブログで「作家の写真を読む」という記事を書いたことがある。作家を被写体にした写真集の紹介だ。今回はそれの続きを書こうと思う。俺がどういう写真を好んでいるかということについては、前回の記事を参考にしてほしい。

 

相田昭 『作家の周辺』

 

 相田昭は著書に付されたプロフィールによれば、

 

1946年、長崎生まれ。法政大学在学中はアラスカ・キングピーク峰に遠征するなどアルピニストとして活躍。卒業後もTBS報道局でアルバイトをしながら登山を続け、山岳写真を手がけるようになる。1974年、写真家として独立。雑誌の仕事で作家や画家のポートレイトを撮り始め、人物写真に傾倒する。1983年、小川国夫氏の著作『彼の故郷』に感銘をうけ、小川氏を被写体に写真展「彼の故郷」を開く。以来、今日まで数多くの作家や詩人、画家などと交流、その人間像に迫る写真を撮り続けている。

 

 本書には相田による、作家との出会いについて書いたエッセイも掲載されており、そこに司修が相田の「彼の故郷」展に寄せた推薦文も引用されているのだが、それによると相田は作家の写真に集中するため、それまでの仕事を全て断ったという。しかし、そのおかげで、貧困に陥り、妻からは離縁状をつきつけられたとか。

 食えなくなった相田は郵便局でアルバイトを始めたらしいのだが、小島信夫との出会いは、その配達員としてだった。相田は書籍小包をあえてポストに入れず、直接本人に渡すことで、話をすることができた。その際、

気むずかしい人を撮る時はこの本を読みなさいと、D.カーネギーの『人を動かす』という本を紹介してくれた。そして他の作家の所へ行っても、小島の所へ行って来たなどと言わないことだよと忠告され、「作家はシットぶかいからね」と念を押された

 その後、仕事で小島を撮ると、小島はその時のことを「被写体」というタイトルで書いたようだが、「言いたいことはしっかりと僕の口から言わせている所もあって、作家は怖いと思った」と相田は書いていて、これは小島が相田の発言を捏造したということだろうか。

 

古井由吉唐十郎飯島耕一

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古井由吉

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大江健三郎柄谷行人

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小島信夫

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高橋源一郎

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澁澤龍彦

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深沢七郎(恐らく、谷崎潤一郎賞の時)

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『作家の顔 「文壇エピソード写真館」』 

 

 本書は、芥川賞直木賞第100回を記念して文藝春秋より出版された。掲載されているのは芥川賞直木賞に関係する作家たちの写真(受賞者だけではなく選考委員も含む)だが、単なる肖像写真ではなく、雑誌の企画で撮った物も多く掲載されておりそれが結構バラエティーに富んでいて面白い。また、文壇の冠婚葬祭担当と呼ばれた写真家の樋口進(元文藝春秋写真部長)のインタビューもあって、読み物としても充実している。ちなみに、樋口によると撮りやすかった作家は、永井荷風今東光柴田錬三郎だったらしい。

 

野坂昭如前田美波里

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ラグビーをする野坂昭如

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村上龍芥川賞受賞直後の写真。中学時代にサッカーをやっていたことから、この写真が企画された。場所は上智大学のグラウンド)

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子供連れの古井由吉

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鉄アレイで体を鍛える大江健三郎と妻ゆかり

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猫をカゴに乗せてサイクリングする大江健三郎

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自動車のタイヤを交換する三島由紀夫(運転が下手だったため、目的地に着いたら家に電話するようにと妻に言われていた)

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鉄棒をする三島由紀夫

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「私の一日亭主」という企画で、深沢七郎の店で働く大庭みな子

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遠藤周作

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『私はこれになりたかった 著名人46人が憧れた仕事』

 

 前述の『作家の顔』を読んでいたら、三島由紀夫白バイ隊員のコスプレをした写真が掲載されていて、キャプションには「"私はこれになりたかった"のグラビアで白バイ隊員に扮した三島さん」とあって、早速「私はこれになりたかった」について調べると、ずばり『私はこれになりたかった』と題された写真集がヤフオクで見つかった。

 落札すると、この写真集非売品らしく、そのためAmazonなんかにはデータが登録されていない。発行日は2016年3月25日。どこで配られたものなのかはよくわからない。

「私はこれになりたかった」というのは、「昭和38年から39年の2年間、『週刊文春』のトップページで連載されていた人気グラビアページ」で、文字通り「各界著名人が実はなりたくてしかたがなかった職業」に扮したもの。

 本書はその二年間の中からの抜粋で、残念ながら三島由紀夫のそれは載っていない(遺族の許可がとれなかったのか?)。作家で掲載されているのは、井上ひさし遠藤周作梶山季之山口瞳吉屋信子瀬戸内晴美など。作家以外では、中曾根康弘植村直己黒柳徹子渡辺貞夫などもいる。

 

渥美清(郵便屋)

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中曾根康弘(金魚売り)

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若尾文子(美容師)

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遠藤周作(易者)

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井上ひさし(泥棒)

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大島渚南海ホークス監督)

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三島由紀夫白バイ隊員) ※本書には収録されず

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三島瑤子・藤田三男編『写真集 三島由紀夫 '25~'70』

 

 石原慎太郎・坂本忠雄『昔は面白かったな』を読んでいたら、石原の次のような発言にぶつかった。

 

石原 新潮社が、三島さんの写真集を出したでしょ。あの中で三島さんらしくていい写真っていうのは、まだ役人の頃に役所にでかける途中、どこかの駅で電車を待っている写真なんですよ。とっても平易で、気取ってなくて。あの人、他の写真は意識しているんだよ。僕ね、昔、三島さんに「石原君、ひとつ忠言するけど、これから色々写真を撮られるだろうけど、雑誌に載る写真は自分で選ばなきゃダメだぞ」って言われたの。「どうしてですか?」って聞いたら、「編集者ってのはみんな作家になりこそなった劣等感を持ってる奴らだからね、一番悪い写真を載せるんだ」って(笑)。

 

 石原が言っているのは1990年に出た『グラフィカ三島由紀夫』のことだろう。俺はその文庫版である『写真集 三島由紀夫 '25~'70』を図書館で借りてみたが、石原の言っている写真は見つからなかったが、それに近いものはあった。

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 大蔵省に勤めながら小説を書いている頃で、キャプションにも「疲れを漂わす」と書かれている。

 石原の『三島由紀夫日蝕』も確認すると、こちらには正しいことが書かれていた。ついでに、石原の『グラフィカ三島由紀夫』に対する感想も引用しておこう。

 

妙な言い方だが、最近新潮社からもらった三島氏の写真集を眺めると、本来天才なるものは氏の写真のように、いかにも天才天才した顔はしていなかったのではないかと思われる。ランボオにしても、ラディゲにしても、ガロアや旧くはモーツァルトにしても、その肖像や写真の表情はもっとさり気ないもので眺めていてくたびれない。

 他の作家なり誰ぞの写真と違って、三島氏のそれは眺め終わるといかにもくたびれる、というよりいささかうんざりさせられる。若い頃の写真だけは例外で自然だが、氏が世に出てその名声が確立された頃から写真には自意識がにじみだし、気負いがまざまざ露出して、それを無理と感じるか栄光の光彩ととるかは眺める者によるだろうが、私にはいかにもくたびれる見物だった。

 あの写真集の中で私が一番好きだったのは、四谷見附付近で撮ったという、まだ官吏時代の、役所の仕事と家へ帰ってからの執筆との二重生活の疲れを漂わす二十代前半の写真で、それには名声を獲得する前の、人生に対する不安を秘めながらもある一途さを感じさせる孤独な青年が写し出されている。その写真には、不確定な青春のはかなさとそれ故の美しさがある。

 

 石原が「電車」と言ったのは、作家と役人の二重生活に疲労した三島が、駅のホームから転落したというエピソードとごっちゃになったためだろう。ちなみに、上の写真以外で石原が最も好きだという三島の写真は、「市ヶ谷で死ぬ直前に、総監を縛った後、切腹するための準備をみんなに指図しているところを、自衛隊の写真班が脚立を立てて欄干の上から盗み撮りした」ものらしい(『昔は面白かったな』では「欄干」となっているが「欄間」の間違いだろう)。三島は写真を撮られていることにまったく気づかず、それゆえ「自意識」が消え、「雄々しくもあり」、「初めて美しくも」あった。石原はその写真を友人の佐々淳行防衛施設庁長官)に見せてもらったというから、門外不出のものなのだろう。

 

 

相田/昭写真集―作家の周辺

相田/昭写真集―作家の周辺

  • 作者:相田 昭
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1994/10
  • メディア: 単行本
 

  

  

写真集 三島由紀夫 '25~'70 (新潮文庫)

写真集 三島由紀夫 '25~'70 (新潮文庫)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2000/10/30
  • メディア: 文庫
 

  

昔は面白かったな回想の文壇交友録 (新潮新書)

昔は面白かったな回想の文壇交友録 (新潮新書)

 

  

三島由紀夫の日蝕

三島由紀夫の日蝕

  • 作者:石原 慎太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1991/03
  • メディア: 単行本
 

 

石原慎太郎 坂本忠雄 『昔は面白かったな 回想の文壇交友録』

 石原慎太郎が文壇について書いたもので、俺がまず思い出すのは、『わが人生の時の人々』に収められた「水上勉を泣かした小林秀雄」で、これは酒席で酒乱の小林秀雄に絡まれていた水上勉を、小林を論破するという形で助け出したら、逆に小林から気に入られたというエピソードを書いたものだが、酒を飲まない俺としては余計に小林の人間性が嫌いになった。

 他には、『三島由紀夫日蝕』という、三島由紀夫との思い出を軸にした三島論があり、これも面白かった。

 そういうことがあったので、『昔は面白かったな』もそれなりに期待して読んでみたのだが、部分部分で興味深いところはあるものの、全体としては物足りなかった。というのも、石原ほどのキャリアを持っている作家なら、自分の人生についてあらゆるところで書き喋っているから、それらをある程度追っていたゴシップ好きの自分(もちろん石原の膨大な著作からすると何十分の一でしかないが)としては、既に知っているような話が多かったからだ(無論、上にあげた小林秀雄の話も載っている)。

 また、石原が「僕の話、もうしなくていいよ(笑)」ということを三回ぐらい言うほどに、対談相手である『新潮』の元編集長坂本忠雄がインタビュアーに徹して石原にばかり喋らせていて、文壇の裏側を知悉しているはずの坂本自身がもっと積極的に話せば、それこそ「文壇交友録」になったのではないだろうか。

 とりあえず、『昔は面白かったな』から、自分が気になったところを取り上げ、解説を加えてみようと思う。

 

坂本 僕は石原さんから聞いたんだけど、川端さんは三島さんのこと嫌いだったんじゃないかって。

石原 嫌いだったと思うね。敬遠してたんだよね。付きまとわれて。

坂本 三島さんのほうが付きまとっていた?

石原 そうだね。

坂本 仲人だしね。

石原 盾の会の閲兵式を国立劇場の上でやる時、川端さんに祝辞を述べて下さいって言ったら、「嫌です、絶対に嫌です」って断られたんだって。それを三島さんが愚痴ってさ。僕は村松剛と仲良かったんだ。剛さんと何度か外国旅行もしたんだけど、剛さんが「慎ちゃん、三島がこの頃死にたがって死にたがってしょうがないんだ。本当心配なんだよ」って。その後、川端さんも意地悪なんだよな。頼みに行った時、「嫌です、絶対に嫌です」って二回言った。それで三島さんもショックを受けて、あの人を見損なったって言った。

 

 この本以前に読んだ『この名作がわからない』の中で、小谷野敦が三島について「慕われた川端は迷惑したと思いますよ」と言っていたが、これでその裏付けとなった。三島の父親は、盾の会の件で川端を恨み、三島の死後『諸君!』で川端批判の文章を書き、川端を激怒させた(小谷野敦川端康成伝』)。

 

坂本 (坂本氏「文学の不易流行」(「新潮、一九八八」)を取り出して)久しぶりに「新潮創刊千号記念号」の座談会を読んだんですけど、これ、面白かったですよね。

石原 うん、面白かった。最近また読んでいる。

坂本 僕が司会したんだけど。

石原 江藤淳開高健と大江と僕だったね。

坂本 これ、傑作ですよ。自分がやって言うのも変だけど。

石原 この時なぜか大江がね、「石原さんのヨットは人生的な意味が分かるけど、開高さんの釣りは怪しいな」って言ったんだよ。なんであんなこと言ったんだろう。

坂本 一種のジェラシーかも知れないね。

 

「文学の不易流行」は、江藤と大江が、『群像』で行われた対談「現代をどう生きるか」(1968年1月号)以来、久方ぶりに公の場で同席したという意味で珍しいものとなっている。『群像』が発売される前、江藤、大江の順で、『三田文学』に秋山駿によるインタビューが掲載されたが(秋山はその時未だ二人の対談を読んでいなかった)、そこで大江は、「江藤さんの批評を必要としない」、「江藤さんとの対談はもうごめんこうむるつもりです」とまで言い、江藤の『小林秀雄』が読売文学賞に落選した時、彼の父が選考委員である佐藤春夫に電話で抗議したということまで暴露した。『群像』と『三田文学』での発言から、二人は決定的に訣別したと言われていたから、この座談会はある種の驚きを呼んだ。

 しかし、仲直りしたということではなく、座談会から二ヶ月後の『新潮』(1988年7月号)に掲載された第一回三島由紀夫賞(大江と江藤は選考委員だった)の選評で大江は「「天皇」という一語が発せられるだけで、座談会そのものが消滅してしまう、埋めようのない淵が、江藤と僕の間に開いているのを、僕は認めていた。おそらく江藤も同じで、司会役としてそれを避けたのだろう」と書き、依然として対立状態であったことを明らかにしている。ちなみに、石原の天皇観については『ユリイカ』の石原慎太郎特集で猪瀬直樹が次のように言っている。

 

 (注:三島・石原の対談「守るべきものの価値──われわれは何を選択するか」のなかで)どちらも日本の風土に根ざすものを言いながら、三島は三種の神器天皇だと言っていて、石原は天皇じゃないと言っている。不思議なことに、ぜんぜん違う。僕も『ミカドの肖像』のなかで西洋人に対して三島由紀夫的な説明をしているんですね。ヨーロッパはピラミッド型の組織だけれど、東京は中心が皇居というブラックホールにもかかわらず、同じ近代を達成しているんだと。ところが、石原さんは天皇はいらないと言っている。東京都の儀式なんかで「君が代」斉唱のときに、石原さんの横に立っていたら、石原さんは「君が代」と言っていないんだよ。「われらが代」って言っているんだ(笑)。おもしろいよね。「君」じゃないんだ。「君」は天皇だから、天皇なんて負けた戦争の責任者だろうくらいに思っているんですよ。僕にもそういうニュアンスのことをチラッと言ったこともある。僕は『ミカドの肖像』も書いているから、一度、なにかの雑誌で天皇制について石原さんと対談しないかと打診されたことがあったんだけど、石原さんは「天皇興味ねえ」ってそんな反応で、けっきょくその対談はやらなかった。「変人・石原慎太郎

 

 座談会はそういう爆弾を抱えた状態で行われたため、つっこんだ話はなく、当時運輸大臣だった石原を「大臣、大臣」と適宜いじることで、無理やり平穏なムードを演出しようとしている。

 そんな中で、話題が開高の魚釣りに及んだ際、まず江藤が「開高の魚釣りというのは、僕は素晴らしいと思う傍らね、なんかちょっと、哀しい感じもあるんだ」と言い、

 

大江 開高さんのおもしろい点はね、釣りの話でね、いつも一番大切なことはとっていて、釣り旅行記には書かないでおいてるという感じが何時もするんだがな。

開高 違う。違う。違う。

石原 あなたもそう思う? そう思うだろう。僕、そう思うんだなあ。ジェニュインなものがないんだな(笑)。

開高 違うんだ。ちょっと違うんだ。

大江 今、整理するからね、僕たちは同じことを感じているわけだ。石原は、開高さんの作品に釣りの中の本当のジェニュインなものがないと感じるわけね。石原は、自分の小説の中で、本当にジェニュインなものだけを釣ろうとしていて、魚なんかは釣ろうとしていない。

開高 ああ。

大江 僕のいっていることは、彼と違ってね、ここにあるはずの大切なものは別の時、小説を書く時にとっておいていると。

 

「ヨット」という単語は出てこないのだが、石原が上で言っていたのはこのあたりだろうか。これから一年半後ぐらいに開高は死ぬのだが、その際『新潮』で大江と石原による追悼対談「現代を生きる作家」(1990年2月号)が組まれ、より率直に開高について語っている。例えば、大江が石原と開高の小説の違いを比較し、それを受けての石原の発言。

 

石原 僕は前に、あなたと開高さんと江藤淳さんと四人で「新潮」千号記念号の座談会をしたときに、大江さんが「開高さんの釣りの文章は石原さんの小説の中のとちょっと違う」と言ったでしょう。それについて僕がどうのこうのというつもりはないけど、その言葉を思い出したのね。釣りなら釣りに本当に情熱を燃やし、熱中し集中するのならいいのだけれども、何か作家の実在というものに絡んでの燃焼というよりも、あの人は割とそれに関するペダントリーについて情熱的で、いつもいろいろ説教が出てくるのだな。『珠玉』も定年前のサッカー選手のフットワークみたいで、ちょっと重いんだな。『夏の闇』というのは僕もとても評価した小説だけれども、これだって彼のとてもいい短編に比べると、やや饒舌というのか、ペダントリーがあってね。

 

 石原も大江も、開高が「俗物」だったということを言いたいのだろう。石原は「本ものグルメは、いかにもなれたという様子を見せないし、第一、しゃべらないよ。僕は、彼の宝石や釣りや、猟や美酒美食のお師匠さんになる人をよく知っているけど、彼はいつもにこにこ笑って黙っているからこそ、大通で、名人なんだな」とも語っている。大江は開高が三島の次の作家を狙っていたと指摘しているが、確かに二人とも、知識人でありつつ、若者受けする文章も書く、という硬軟併せ持つタイプであった。そして二人とも、「こういう風に見られたい」と意識しながら行動する人間でもあった。

 開高はある時期から現代文学の不振ということを盛んに言い立て、金井美恵子からその身振りを揶揄されたり、石原からも新潮での座談会で「小言幸兵衛」と言われていたが、そういう大仰な感じが、すべてにおいて彼の行動をわざとらしく見せるのだろう。三島にしても開高にしてもそういうあざとい感じが文学の外にいる人間にも受ける要因となっていたのだろうが、そのおかげで、文壇からは嫌われ、文学賞には恵まれなかった。坂本によれば、そのことで開高はふて腐れ、「最後に「夏の闇」を書いた時もみんな傑作だと褒めたのに、受賞を断ってしまった」ということがあったらしい。『夏の闇』は「文学賞の世界」というサイトで確認する限り、3つの文学賞の候補に上げられ、全て落選しているが、その中のどれかということだろうか。

 ちなみに、江藤にも「俗物」的なところは多分にあって、江藤と大江がまだ決裂していなかった頃、江藤・大江・石原でよく飯を食べにいったらしいが、「江藤はなぜか開高をあまり呼ばなかったな」と石原は坂本に言っていて、それは恐らく同族嫌悪によるものだと思われる。大江と石原の追悼対談が載った『新潮』には、江藤による追悼文も掲載されているが、最後の「君がさっさと先に逝ってしまったのだから、私もそろそろ締めくくりの支度をはじめなければならない」という文章は、江藤が自殺したことを知って読むと不気味である。しかし、それに続く「今はやすらかに、うまい酒でも飲みながら待っていてくれたまえ」という文のセンチメンタルな臭みには、辟易するが。

 江藤は石原文学の理解者としても知られていたが、石原本人は文筆家としての江藤を認めていなかったようで、『昔は面白かったな』では次のように言っている。

 

石原 (前略)江藤の文体は僕は嫌いなんだよ。「海は甦える」なんか、非常に説教がましくて、押し付けがましくて。彼の解釈とか理解には感謝はしたけど、文章は固くて説教がましかったね。でも、「幼年時代」はとってもこなれて、奥さんを含めた母親に対する本当の思慕が表れていて、いい文章だったね。

 

 石原は江藤が「およそ非肉体的な人間だった」とも喋っているが、三島といい江藤といい、運動音痴から来るコンプレックスによって、石原に接近するということがあるようだ。石原文学を認めることが、コンプレックスの解消に繋がるかのように。石原本人も、その二人について「肉体的な条件から見て、僕に対して羨みみたいのがあったんでしょう」と言っている。「羨み」ということでは、伊丹十三と大江の関係もそれに近い気がする。運動以外では、江藤、三島共に、政治と関わることに関心を持ち、晩年の三島は先駆けて議員となった石原に変な絡み方をした。

 三島と開高が文壇では不遇だったことは少し前に書いたが、石原もそれは同じで、『化石の森』が新潮の日本文学大賞の候補になった時は、同じく候補に挙がっていた福田恆存が劇団を抱えていて大変だということで、福田の 『総統いまだ死せず』が受賞した(河上徹太郎の『有愁日記』も同時受賞)。それを主導したのは、選考委員だった大岡昇平中村光夫らしい。といっても、大岡に対してはそこまで憤ってはおらず、文学賞の選考に関して、石原が本当に嫌っていたのは吉行淳之介だ。

 江藤は、第19回谷崎潤一郎賞の選評をもとに、吉行が文壇政治を行っていることを『自由と禁忌』で批判し、「文壇の人事担当常務」と呼んだ。その時の谷崎賞を受賞したのは古井由吉『槿』で、落選したのは中上健次の『地の果て 至上の時』だったが、中上と吉行は友好関係にあり、江藤と対談した時も、「(注:吉行について)僕は江藤さんのように、文壇の人事係とか、そんなふうに露骨には思わない」と擁護している(「今、言葉は生きているか」)。谷崎賞で中上を落とし続けたのは、丸谷才一だと言われている*1

 石原と吉行が激突したのは、『文學界』(1989年3月号)に掲載された、「賞ハ世ニツレ 芥川賞の54年に見る「昭和」の世相と文壇」と題された芥川賞を巡る座談会上でだ。出席者は、芝木好子・吉行淳之介石原慎太郎・大庭みな子・池田満寿夫池澤夏樹昭和10年代から60年代まで10年ずつに分けて、その中で芥川賞を受賞した作家の中から代表者を一人ずつ選んでいる。石原と吉行の文壇政治をめぐるやり取りは以下の通り。

 

石原 やっぱり芥川賞は新人の賞ですよ。直木賞とそこが違うんだよ。直木賞はちょっとポリティカルなところがあるし、唯一芥川賞がフェアな賞だからいいんだよ。あとはアンフェアだよ、他の文学賞なんておおかた、芸術院と同じだ。ちゃちな政治がらみで本当に奇々怪々だもの。やっぱり芥川賞はフェアである限り続くでしょう。続いてもらいたい。

池田 それはフェアだと思う。ぼくに賞をくれたんだもの。

吉行 あのね、意地でフェアなの。

石原 しがらみがないからな。芥川賞をもらったあと五年、十年、みんな紙一重のところで闘ってるよ、それは。しかし、それから後の問題は、言わないけどいろんなことがあるよ。やっぱり総じて芥川賞以後のプロセスの賞にはいろんな問題がある。

吉行 そんなの、ないよ。

石原 ある。

吉行 ない。

石原 ある。あんた、芸術院なんてところにいて、そんなこといってたって通じないよ。

吉行 まあいい、あとでやろう。

 

吉行 芥川賞は公平だけど、情実がないといったほうがもっと正しい。

石原 ほかの賞は情実があるな。いろいろあるぞ。

吉行 情実というより、なげやりなところが出ざるをえない場合があるんだよ。

石原 うまいこと言うな、やっぱり文士は、言い逃れがうまい。吉行さんは日本の文学を投げてるわけだな。

吉行 いや、ちょっと聞いてくれ。違う角度からわかりやすく言うから。

石原 あなたのような人は毅然としてもらいたいね。

吉行 (前略)ある作家が芥川賞候補になったとき、人を介して、委員にたいしてどうすればいいんですかとぼくに訊いてきた。その頃ぼくは賞を貰って数年目といったところでね、もしそういうことをしたら、入るものも落ちるよと言っておいた。

石原 なるほど(笑)。芸術院とは逆だよな。

吉行 それから、これは特に石原さんに聞いてもらいたいんだけど、既成作家が既成作家の作品を決めるのは嫌なんだ。だから、新人賞は勉強のために、また一種の義務感で引き受けるけど、あとのものは一切ノータッチにしようと思って、谷崎賞の委員は三年断った。ところが、やっぱり浮世の義理というのがあるね。どうしてもダメだね、引き受けさせられた。あとは芋づるだよ。

 

 ちなみに、この時点で吉行が選考委員を務めていた文学賞は、芥川龍之介賞泉鏡花文学賞川端康成文学賞中央公論新人賞・谷崎潤一郎賞野間文芸賞読売文学賞柴田錬三郎賞日本藝術院会員。文壇の主要な賞にはほぼ顔を出していて、文壇政治家と見られても仕方がないところはある。もし賞が欲しかったら、後輩作家は自ずと吉行批判を抑えざるをえないからだ。

 上にピックアップしたやり取りだけでも、結構険悪だが、活字にした際、結構削られたらしい。『群像』(2018年3月号)で行われた西村賢太との対談は次のように述べている。

 

石原 (前略)そもそもは、文藝春秋芥川賞の集まりがあってね、そのときに僕が吉行に「お前は芸術院の会員か」と聞いたら「そうだ」と言うので、「俺を芸術院の会員にしろよ」と言ったら、「だめだ。君なんかは我々は必要としていない」と言うから、「偉そうなことを言うな。じゃ、大江をしろ。江藤をしろ」と言ったら、「彼らも必要としていない」と言うから、「おまえの小説は必要とされていないから全然売れねえじゃないか。彼らのほうがよっぽど売れてる。俺だってたくさん本が売れてるぞ。おまえと違って必要とされるより売れてるんだよ」ということでけんかになったんですよ。当時の「文學界」の編集長に、「これはちゃんと載せろよ」と言ったけど、遠慮して載せなかったんだな。その後、エーゲ海の何とかという変な小説を書いたやつ、何と言ったっけ。

西村 池田満寿夫

石原 あれが酔っぱらって入ってきてゴチャゴチャになって、険悪な雰囲気がおさまっちゃったんだよ。(後略)

 

 藝術院のことについては、『en-taxi』(2014年冬号)で行われた、坪内祐三によるインタビューでもこんな風に言っている。

 

石原 芸術院ってのは良くないよ、本当に。税金の無駄だよ。芸術院の会員を選ぶときになると、元老みたいな審査員が京都にいっぱいいるから、古典芸術に関係ある連中は賄物を持ってそこをまわるんだ。ただ、相手が多くて普通はとても一日じゃまわりきれないんだけれども、その専門の運転手に頼むと一日でパッとまわってくれる。どうも人間の世界っていうのは皆そうで、どこもアンダーテーブルですよ。

坪内 十数年ぐらい前に『佐藤栄作日記』が公刊されましたけど、あれを読むと、文化勲章の候補が決まる時期になると必ず東郷青児堀口大學佐藤栄作のところを訪ねてきて、それを「俗物なり」みたいな感じで佐藤栄作は書いているんです。

石原 佐藤栄作はそこまで読み切ってるわけだ。 

 

 石原と吉行のその座談会後も続き、大江の勧めで書いた『わが人生の時の時』(1990年)が、吉行が選考委員を務めていた野間文芸賞の候補となったが、吉行が「こんなのは小説じゃない」と言って落としたらしい。野間文芸賞は候補作を発表していないのだが、1990年度の選考会では吉行が欠席しているので、恐らく翌年のことだろうか。その際の受賞作は河野多恵子『みいら採り猟奇譚』(1990年)で、選評では全員河野の作にしか触れていないため、他の候補作が何だったのかは結局わからない。

 

参考文献・サイト

文学賞の世界 

昔は面白かったな回想の文壇交友録 (新潮新書)

昔は面白かったな回想の文壇交友録 (新潮新書)

 

  

わが人生の時の人々 (文春文庫)

わが人生の時の人々 (文春文庫)

 

  

三島由紀夫の日蝕

三島由紀夫の日蝕

  • 作者:石原 慎太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1991/03
  • メディア: 単行本
 

  

  

 

江藤淳と大江健三郎 (ちくま文庫)

江藤淳と大江健三郎 (ちくま文庫)

 

   

川端康成伝 - 双面の人

川端康成伝 - 双面の人

 

  

この名作がわからない

この名作がわからない

 

  

能は死ぬほど退屈だ―演劇・文学論集

能は死ぬほど退屈だ―演劇・文学論集

 

 「藝術院とは何か?」を収録

江藤淳は甦える

江藤淳は甦える

  • 作者:平山 周吉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/04/25
  • メディア: 単行本
 

  

自由と禁忌 (河出文庫―BUNGEI Collection)

自由と禁忌 (河出文庫―BUNGEI Collection)

 

  

文学の現在―江藤淳連続対談

文学の現在―江藤淳連続対談

 

 

おまけ

江藤淳吉行淳之介を批判したが、江藤と対談した中上は吉行とは友好的だった。写真は『唐十郎血風録』より。

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*1:谷崎賞における中上の動きについては別のところでも書いた

中上健次が選ぶ150冊 - 昼の軍隊