文壇ゴシップニュース 第9号 『スカーフェイス』の元ネタ? セルゲイ大公暗殺未遂事件
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作家の写真を読む④
作家の写真を読む③から半年近く経った。その後も、意識的に作家たちの面白い写真はないかと探し回り、それなりに溜まってきたので、ここらで一挙に放出しよう。これまでは書籍しか取り上げてこなかったが、今回は雑誌からも拾ってきた。
神蔵美子『たまゆら』(マガジンハウス)
末井昭、坪内祐三、そして自身の三角関係をテーマにした私写真『たまもの』で知られる神蔵美子の二作目にあたる写真集。女装した男たちを撮っているのだが人選が独特で、宮台真司や近田春夫、高山宏、鈴木邦彦、四方田犬彦、安部譲二といった女装と結びつかないような文化人が被写体になっている。坪内祐三と末井昭もいて、共演までしている。カバーは島田雅彦。
また、ただ女装するだけではなく、テーマも定めており、「コギャル」(宮台真司)、「家政婦」(赤塚不二夫)のような具体的なものから、「ためらい」(高山宏)、「もの想い」(島田雅彦)といった抽象的なものまで様々である。
元々は『週刊宝石』(光文社)の連載だが、書籍化するにあたってマガジンハウスに版元を変えている。巻末にはモデルのインタビューや文章が載っており、各々女装の感想を語っていて、饒舌にコンセプトを語る人もいれば、あっさりしている人もいる。例えば坪内祐三なんかは、「アメリカ文学者」としての興味からアメリカンダイナーのウェイトレスに扮してみたと積極的だし、逆に根本敬なんかは、ハマるよりもハメさせるほうが好きだからという理由で、自身の女装にも冷めた目線を送っている。
神蔵は女装専門誌『くい~ん』の表紙も手掛けており、それがこの企画のきっかけにもなったようだ。
「篠山紀信の美女シリーズ」『潮』1971年8月号(潮出版社)
かつて『婦人公論』に「私の傑作」という著名人が自由に写真を撮る企画があり、金井美恵子が出た時は、近所の風景を被写体に選んでいた。
『Shutter』1983年10月号(インデックス出版)
内容的に、写真週刊誌ブームに乗っかるべく創刊された雑誌のようだが、詳細は不明。わずか一年で休刊したようだ。他の号には事故死した向田邦子の遺体が掲載されていた。版元はインデックス出版となっているが、コンピューター・土木関連の書籍を扱っている現在のインデックス出版とは無関係と思われる。福永法源『私は百パーセント癌を治した : 「行」でガンが治った!生きざまを切開する「御法行」』という本も出したことがあるらしい。
「仮装せる文士」『趣味』(易風社)
『趣味』は明治時代に出ていた月刊の文芸誌。当時新進だった自然主義の作家がよく寄稿していた。グラビアにも力を入れていて、絵画や写真も掲載していたが、「仮装せる文士」はその中の一つ。
徳島高義『ささやかな証言──忘れえぬ作家たち』(紅書房)
『群像』の編集長を務めた人による自伝。村上春樹とも関係が深く、村上が外国に移住した際は、猫を預かったこともある。画像は徳島の著書から。
ピーター・キャット(千駄ヶ谷時代)
『朝日新聞』1960年5月9日朝刊
朝日新聞に掲載された谷崎潤一郎の足の裏。谷崎本人は勝手に載せられたと怒っていた。
「澁澤龍彦の世界」『別冊新評』1973年秋号(新評社)
「昭和文学アルバム サファイア・セット」『角川版昭和文学全集』の付録(角川書店)
1961年から刊行が始まった『角川版昭和文学全集』には、「昭和文学アルバム」という付録がついていたらしく、古本屋ではこれだけを単独で売っている。サファイア・セットは第20回配本分までを対象としており、それ以降はルビー・セットと呼ばれている(ポケモンみたいだ)。
写真だけでなく、その作家と関わりの深い人々によるエッセイも掲載されていて、これが月報の代わりだったのだろうか。
『私の文壇生活を語る』(新潮社、1936年)より井伏鱒二
作家の風貌や書斎を写した写真集はそれなりにあるが、この写真集が類書と異なっているのは、台所や応接間、寝室といった普段露出することのない場所まで撮影していることだ。そのため俺の如きミーハーな文学ファンを満足させる出来となっている。
元々は『すばる』の連載で、それを書籍化したもの。中上健次だけは、遺品の撮影となっている。赤川次郎は、家ではなく仕事場の撮影だが、ファサードを見ただけでも、区役所ぐらいの大きさがありそうでびびった。
石原慎太郎が所有する美術品
フォンタナ
中原浩大『REIA』
作家の写真を読む(三島由紀夫篇)
三島由紀夫ほど、多くの写真を残した作家は、世界的に見てもそういない。流行作家として写真を撮られる機会が多かっただけでなく、自らも写真を表現の一つとしてとらえ積極的に撮らせたからだ。石原慎太郎に「雑誌のグラビア写真は必ず自分で選べ」とアドバイスしたこともある。このサイトでも三島の写真をいくつか紹介してきたが、今回は、年代別にまとめてみた。
1958年
『別冊文春』のグラビアのために撮影したもの。場所は文春ビルの屋上。煤煙で手摺が非常に汚れていたとか。同席していた石原裕次郎は三島の服装について「なんだか知らないが、彼の着ていたコートも背広も特別誂えだろうが、ありゃあ高いぜ。でも手袋まで同じ色とはあんまりいかさねえな。第一あんな色は日本人の背丈には合わないよ」と評した。
1961年11月
1963年3月
細江英公が土方巽を撮った写真(『DANCE EXPERIENCEの会』土方巽におくる細江英公写真集)に感銘を受けた三島が、自身の評論集『美の襲撃』のカバーと口絵に使う写真を細江に依頼。三島の体にゴムホースを巻きつけるという細江のアイデアが活かされた写真が掲載された。
その後、三島とのコラボレーションに手応えを感じた細江の方から三島にアプローチし、『薔薇刑』へと発展する。『薔薇刑』には、『美の襲撃』で使用した写真がすべて収録されている。篠山紀信を撮影者に選んだ『男の死』は、三島主導で撮影が行われ、篠山はそれに不満を持ったようだが、『薔薇刑』では、細江主導で撮影が行われた。また、三島がベレンソンの『イタリア・ルネッサンス』(61年に翻訳の出た『ルネッサンスのイタリア画家』か?)を参考資料として渡したため、「さまざまな涜聖」と題された章ではそれらの引用が作品に反映されている。
『薔薇刑』は日本でこれまで四回ほど異なるヴァージョンが出版されており、それぞれデザイナーが違う。初回が杉浦明平(1963年)、二回目が横尾忠則(1971年)、三回目が粟津潔(1984年)、最新版が浅葉克己(2015年)。横尾は自ら売り込むほど熱心で、63年版のときはすでに杉浦に決まっていたのでアシスタントとして働き、その後自ら装幀・装画を担当した。出版は三島の死後だが、これは途中横尾が足の病気で入院したためで、三島本人は内容を把握し、自決直前に絶賛の電話を横尾にかけている。横尾は1983年に篠山の『男の死』をモチーフにした三島の肖像画も描いており、モーリス・ベジャールが『デュオニソス』の中で使ったりした。
筆者が所蔵する二十一世紀版『薔薇刑』
『美の襲撃』のカバーに使われた写真
ジョルジオーネ『眠れるヴィーナス』を引用した写真
ジョルジオーネ『眠れるヴィーナス』
1966年
写真家としての矢頭は生前二冊の写真集しか残していないが、そのうちの一冊『体道 日本のボディビルダーたち』に三島の写真が収録されている(序文で自分は逆柱のようなものと謙遜している)。「体道」というタイトルには、「ボディビルが武道,茶道と同じく〝道〟として完成するように,という願い」がこめられているらしい。
三島由紀夫のボディビルの師匠である玉利斉や平松俊男が解説を書いており、表向きはボディビル普及を目指した写真集となっているが、制作に矢頭・三島・ウェザビーといったゲイ人脈が関わっていることから、ゲイ向けとも見なされている。巻末の人名索引には、モデルの職業、経験したスポーツ、体重、身長、胸囲、ボディビル歴まで記載されている。ちなみに三島は、身長164cm、体重70kg、胸囲110cm、ボディビル歴10年。
1968年10月
『血と薔薇』は、天声出版の編集者だった内藤三津子が企画し、澁澤龍彦が編集長を務めた雑誌。創刊号の目玉の一つが、三島の企画によるグラビア「男の死」で、三島だけでなく、土方巽や唐十郎、三田明らも参加し、写真で「男の死」を表現している。
「男の死」のアイデアはそこで終わらず、三島は、横尾忠則にもモデルになるよう説得し、篠山紀信撮影で互いに「男の死」を演じるというプランを建て、内藤が設立した薔薇十字社より写真集を刊行することにした。しかし、横尾が足の病気で入院していたため、三島一人で撮影を進めざるを得ず、結局出版が実現する前に自決した。死の三日前には、「一体いつまで、足に拘っているんだ、早く、写真を撮ってくれ」と催促されたという。
三島側の撮影は終わっており、三島単独で写真集を刊行することも計画されたが、平岡瑤子の反対や、薔薇十字社の経営悪化もあり、頓挫。今年に入って、アメリカの出版社リッツォーリからThe Death of a Manが出版されるまで、『血と薔薇』創刊号に掲載されたニ葉以外、「男の死」が公開されることはなかった(ただし、「聖セバスティアンの殉教」はThe Death of a Manから外されている)。
篠山によれば、三島は写真にうるさく、コンタクトプリントの段階ですべてチェックし、好みのものには裏に「三島」とサインした。側腹筋がうまく出ているものを選んでいたらしい。
『血と薔薇』に掲載された二枚
1970年11月25日付
撮影者:不明 朝日新聞夕刊
三島が自決直後に撮られた総監室の様子。中に入れないので欄間の上から撮影している。
1970年12月11日発行
未確認
1983年12月
新潮日本文学アルバムは、文学者の生涯を写真を通じて辿る企画。どぎつい写真は載っていないが、あまり見たことのないものも多数あり、それなりに面白い。
1984年11月23日発行
撮影者:不明 週刊フライデー創刊号
講談社が発行している週刊誌フライデーの創刊号に掲載され、騒ぎになった三島の生首。「この写真は遺体が始末される前の、ごく短時間内に撮影され、奇跡的に世に残っていたもの」と説明されていて、出所元は伏せされている。また、森田必勝の介錯をした古賀浩靖が出所後生長の家に入信したことも書かれている。
平岡瑤子は知人のジャーナリストたちから写真は警視庁から流出したものだと教えられ、警視庁に調査を依頼し、講談社には雑誌の回収と三島の著作の重版停止を求めた。児童向けの『潮騒』を除くと、1998年の『中世 剣』(講談社文芸文庫)まで、三島の新たな著作が講談社から出ることはなかった。
当時、フライデーの編集長だった伊藤寿男によれば、三島の死体写真を売り込んでいる男がいて、フライデーに回ってくるまでの間、三島の本を出している大手出版社二社に持ち込み、採用されなかったという(新潮と集英社?)。講談社には文芸誌『群像』があり、三島の本もそれなりに出していたが、伊藤の判断で掲載を決め、一人で責任をとるため上司には一切相談しなかった。持ち込まれた写真は10枚以上あり、それでも生々しすぎるものはカットした。
後日、警視庁に伊藤は呼び出されたが、「入手先は口外できない」で押し通した。
石原慎太郎は佐々淳行から、切腹の指示・準備をしている三島由紀夫の非公開写真を見せてもらったと坂本忠雄との対談本で語っているが、流出元もその周辺なのだろうか。
1990年9月
この写真集について、石原慎太郎は、「他の作家なり誰ぞの写真集と違って、三島氏のそれは眺め終わるといかにもくたびれる、というよりいささかうんざりさせられる」と書いた。三島由紀夫が「三島由紀夫」を演じているような、自己主張の強い写真集。下の写真は、石原がその中で唯一好きだという、自然体の三島を写した一枚。
1995年11月
三島由紀夫生前の写真と篠山紀信が撮影した三島邸の写真を組み合わせたもの。写真で見る限り豪邸に見える三島邸だが、実際はそうでもないらしい。
洋書が置かれた書斎の一部。『ブリキの太鼓』や、『ブルックリン最終出口』、ニン『炎へのはしご』などが見える。
2014年10月
撮影者:篠山紀信 『記憶の遠近術 ~篠山紀信、横尾忠則を撮る』
『血と薔薇』の版元である天声出版から、横尾忠則と彼のアイドルを一緒に撮影する、『私のアイドル』という企画が生まれ、最初の被写体として選ばれたのが三島由紀夫だった(撮影は1968年)。三島は『私のアイドル』のために、「ポップコーンの心霊術 横尾忠則論」という文章を書き、本の序文に使用されるはずだったが、三島の生前には刊行されず、1992年になってようやく『記憶の遠近術』(講談社)というタイトルで出版された。
『記憶の遠近術 ~篠山紀信、横尾忠則を撮る』は、2014年10月11日から2015年1月4日まで横尾忠則現代美術館で開催された同名の展覧会のカタログで、講談社版『記憶の遠近術』を再構成し、展覧会で使用した写真も追加している。
横尾はなぜ自分が『男の死』の共演相手に選ばれたのかわからないと言っている。下の写真では、シリアスな三島と弛緩した横尾という対照的な様子を見せているが、こういう雰囲気を『男の死』でも表現したかったのだろうか。それとも、横尾がいれば、自分がより際立って見えるだろうと計算していたのか。
2020年9月
撮影者:篠山紀信 Yukio Mishima: The Death of a Man
50年に渡って封印されてきた『男の死』が今年遂に解禁された。しかし、撮影者である篠山の発言がないせいか(俺が見つけられていないだけかもしれないけど)、メディアの反応も鈍く、どこかひっそりとしている感じがある。篠山自身はこれまで楽しい撮影ではなかったと語っている。調べたら、6月に発売された『季刊文科』夏号の「特集 自決から半世紀 没後50年の三島由紀夫」に横尾忠則がエッセイを寄せていて、アメリカと日本で『男の死』が発売されると書いていたのだが、これもあまり反響がなかったのでは? 俺は発売の1ヶ月ぐらい前にTwiitter上で「Amazonで『男の死』の予約が始まった」というツイートが回ってきて偶然知った。その場で予約したら、10月12日に到着した。その後、Amazonの在庫は不安定なようだ。
堂本正樹が、三島はジムのシャワー室で前を隠さず歩き回っていたと書いたり、矢崎泰久が、三島はサウナ後の談話室でも全裸のまま過ごしていたと書いたりしていたが、どうやら三島本人は自分のペニスのサイズに大いなる自信を持っていたらしく、『男の死』では、全裸で吊るされていたり、股間を強調するような衣装を着たりしていて、本当は無修正のペニスを載せたかったのではと一読して思った。
珍奇な物を見たいという欲望は満たしたが、この写真集について真剣に考えると、やはり空々しいという思いは拭えない。何しろ、自分が自決することを意識し、予め「用意した、「観賞用の死体」なのだから。本人は、自分の本当の死体写真が流出するところまでは予測していたのだろうか。五十年も経つと、死体写真すら生々しさを失い、ネットのネタになっているのが現状だ。
参考文献
細江英公「写真集『薔薇刑』ノート--三島由紀夫氏との最初の出会い」『ユリイカ』1986年5月
石原慎太郎、坂本忠雄『昔は面白かったな : 回想の文壇交友録』
不遇な芸術家伝説を目指して
一年ほど前、『マッチングアプリの時代の愛』という小説を書いて、ブログで発表したことがある。恐らく、これを自発的に読んでくれた人は、5人もいないと思う。マッチングアプリというのが社会的にある程度ホットな話題で、ツイッターなんかではそれを扱った漫画なんかがバンバンリツイートされ議論の対象になったりしているのに、わが創作は港から出港する前にデータの海の中へ沈没してしまったのだ。「やっぱり、影響力のある人間に取り上げてもらわないと、ネットでバズるのは難しいんだ!」と悔し紛れにあの日の夕日に向かって叫んだりした。
また、俺は8年ほどブログを続けているが、こちらも一度だってバズったことがない。おまけに、グーグル検索で全然ひっかからないから、誰も俺のブログの記事を発見できないという悪循環に陥っている(グーグルがアホやからブログがかけへん)。
これはまずいぞと思った俺は、ブログが伸びないのはテーマが定まっていないからだと考え、「文学」に話題を絞ったnoteのアカウントを作成し、これまでに7本ほど記事をあげてみた。すると、自分では会心の出来だとうぬぼれていたのが、結果を見ると、1日のアクセス数が3人以下という惨憺たるものだった。これだけ自分の編み出した戦略があたらないのだから、営業とかコンサルとか絶対に向いていないと思う。
そこで、現世で評価されるのは潔く諦めて、「不遇な芸術家」として死後評価されることを目指そうとした。ゴッホとか、尾崎翠とか、みたいに。
ところが、最近、菊池寛文学全集第六巻を読んでいたら、こんな随筆を見つけてしまった。タイトルはずばり「芸術家と後世」。この随筆は、中世のキリスト教徒がギリシア文化を蔑ろにしていたことや、シェイクスピアが17世紀から18世紀にかけて批判されていた事実などをもとに、世間の評価というものがいかに不安定・不公平であるかということを説き、そのため、生きているうちから「後世に残るか残らないか」ということを考えても仕方ないだろう、という趣旨のものだ。そこに、俺の目論見を粉々に打ち砕く次のような文章が載っていた。
現在の作品に対して後世なるものが、一々批判のし直しをして呉れるものだろうか。自分は思う、後世と云うものは、我々の思うほど親切ではあるまいと。否可なり不親切な冷淡なものではあるまいかと。大正時代の不遇天才作家の作品が二十一世紀頃の帝国図書館の一隅に塵に埋もれて居ても、洟汁も引っかけまいと思う。やっぱり夏目漱石や尾崎紅葉辺のように死んだ時に 立派な全集でも出版されて、それが全国に普及されて居ると、後世の目にも止まり易く、批判もされ易いのではないかと思う。
かつてのベストセラー作家で16巻に及ぶ全集が出ていながら忘れられた作家となっていた獅子文六が、最近ちくま文庫で続々復活しているのも上のケースに当たるだろう。 菊池寛本人も21世紀になって『真珠夫人』がドラマ化され再評価されるということがあったが、やはり元ベストセラー作家であったことは大きい。
ある時代に於て、全然認められなかった作家が、後代に至って認められた例は皆無と云ってもよい。近代主義の先駆と云われるウィリアム・ブレークやスタンダルなどは、生きて居る時代には余り認められずして、後世に於てその価値を大に認められたが、然し生前その著作を出版し得る程度迄は認められたのである。生前少しも認められずして死後に於て発見せられたる例は殆ど皆無と云ってよい。
居ても立っても居られなくなった俺は図書館にダッシュで駆け込み、ゴッホの伝記(嘉門安雄『ゴッホの生涯』)を借り出してきた。すると、ゴッホも生前から新聞や『メルキュール・ド・フランス』といった雑誌に取り上げられ、評価されていたことを知った。そもそもゴッホは画家を目指したのが遅く、活動期間も10年しかない。18歳から本格的に美術を学んだとして、28歳までに有名になる画家のほうが普通は珍しいだろう。また、ゴッホの活動時期は、印象派の評価がようやく確立し始めた頃で、彼らの絵もそれでさえなかなか売れなかったのだから、ゴッホの絵柄で当時売れなかったのは当然だとも言えるし、逆にゴッホがもう少し長生きしていれば、彼らと同じように売れていたはずだ。ゴッホを認めていたのは、彼の弟だけではなく、ゴーギャン、ベルナール、ロートレック、オーリエ(美術評論家)といった人々がいたのだから。
尾崎翠にしても、『新潮』や『婦人公論』、『女人芸術』といった雑誌に作品を発表しており、『第七官界彷徨』は啓松堂から商業出版され、当時、花田清輝なんかが読んでいる。つまり、その程度には有名だったのである。「不遇」ということでいうなら、いくらでも下には下がいる。俺が知っている中で一番壮絶なのは、以前『芥川賞をとれなくて発狂した人』という記事で紹介した、来井麟児だ。どのように壮絶なのかは、記事を読んでほしいが、まさに「生前少しも認められずして死後に於て発見せられたる例は殆ど皆無」の代表例である。
俺もこのままでは来井麟児の道を突っ走るばかりなので、大きな事件でも起こして目立つしかないと思ったが、加賀乙彦『宣告』のモデルである正田昭という人物は、殺人犯で死刑囚おまけにイケメンというそれなりにジャーナリズム受けしそうなプロフィールにも関わらず、群像に掲載された『サハラの水』という小説は単行本にすらなっておらず、世間からも完全に忘れ去られている。たとえ殺人を犯したとしても誰もが永山則夫になれるわけではないということを正田は教えてくれたのだった。
結局のところ、インターネット時代になって誰もが発信できるようになったが、最低でも商業誌への掲載や商業出版といったハードルを超え、誰かのお墨付きを得たものでないと、真剣に評価されないという状況はあまり変わらないと思う。
秋草俊一郎 『「世界文学」はつくられる 1827-2020』
ある小説が優れていることについて、「これは世界文学だ!」と表現する人がいて、自分はそれを見るたびに苛立っていた。まず、「世界文学」という言葉は昨今あまりにも乱用されており、それ自体既にクリシェと化しているのにも関わらず、そこに気づかない非文学的な鈍感さに対して。それから、「『世界文学』って言っておけば今どきかつ安全なんだろ?」という、空気を読むことだけに徹した軽薄さに対して。
なぜこのような事態が起こっているかと言うと、それは「世界文学」という言葉がこれまで厳密に定義されたことがなく、みんなが好き勝手に使っているからだ。なにしろ、「世界文学」という言葉が広まるきっかけを作ったゲーテ自身、それをきちんと定義しなかったがために、その意味するところを解明しようと、研究者たちが膨大な量の論文を書いているという。それ以来、世界中で「わたしのかんがえるせかいぶんがく」が量産されていることになる。秋草俊一郎の『「世界文学」はつくられる 1827-2020』は、そのゲーテから始まり、世界文学全集や世界文学アンソロジーの成立過程や状況を分析することで、いかに「世界文学」という言葉・概念が、恣意的に使用されてきたかということを解き明かしている。
これまで「世界文学全集」について焦点を当てた書物といえば、矢口進也の『世界文学全集』があった。日本における世界文学全集の始まりからその終焉までを描き(池澤夏樹のものは時期的に含まれず)、戦後の世界文学全集については掲載作品まで転記していることから、データ的にも役に立つのだが、分析よりかは紹介に重点が置かれていた。秋草著の場合、精密な分析はもとより、意識して日・米・ソという視点を導入しているので、矢口のものより遥かに広い視野で「世界文学」というものについて見通すことができるようになっている。
日本の世界文学全集が誰をターゲットにしていたのかという話や、ソ連で刊行された『世界文学叢書』に、『失われた時を求めて』、『ユリシーズ』、『変身』が政治的理由から収録されなかった話など、本書には「世界文学」にまつわる面白いエピソードが色々あるのだが、中でも興味深かったのが、アメリカの大学で教科書として使われている三種類の「世界文学アンソロジー」全てに樋口一葉が収録されている理由だ。
「世界文学アンソロジー」に、一葉が繰り返し採択される理由はいくつか考えられる。第一に、一葉が女性作家であること。「世界文学アンソロジー」が、しだいに女性作家にも門戸を開くようになったことはすでに説明したが、一葉は近代日本(そしておそらく東アジアでも)における最初期の職業的女性作家であり、話題にとりあげやすい。第二に、作品がどれも短いこと。紙面がかぎられたアンソロジーに代表作を収録しやすいのは大きなメリットだろう。
そして第三に、一葉が同時代人にくらべても西洋文学の影響をほとんど受けなかったこと(引用者注:「受けなかった」に傍点)。予想に反して、その地域主義ことが、一葉文学の強みになっている。『ベッドフォード版世界文学アンソロジー』は、「イチヨー・ヒグチ」を十九世紀末の最高のリアリストのひとりと位置づけているが、それはそのリアリズムが、西洋の「物まね」ではなく、日本(アジア)に由来するものだからだ。
俺はこのくだりを読んで、ただちに村上隆を思い出した。現代アートの世界は、作品そのものより、それが成立するまでの「コンセプト」を重視するところだが、そこで「日本人」として成功した村上は、「欧米の芸術の世界は、確固たる不文律が存在しており、ガチガチに整備されております。そのルールに沿わない作品は『評価の対象外』となり、芸術とは受け止められません」と『芸術起業論』の中で書き、西洋が考える「日本像」を強く意識してアートを作った。
それと同じことが文学の世界でも起きているわけで、例えば日本の文学史では伊藤整がジョイスやモダニズムに影響されて小説を書いたということが特筆されたりするが、「世界文学アンソロジー」の編者からすれば、まったく興味の持てない事柄だろう。我々が西洋文学から影響を受けて創作しても、向こうからすれば、それはは単なる「猿真似」でしかない。明治から現在にいたるまで問われてきた、「日本文学は世界文学を規範としなけれなばらない」という問題意識が、国内限定でしか通用しないという皮肉な状況がここにはある。
秋草はそこからさらに突っ込んで、次のようなことを書いている。
「世界文学アンソロジー」をながめていて気づかされるのは、アジアやアフリカはマイノリティや女性、植民地といった役割を押しつけられすぎているのではないかということだ。どんなに先鋭的な「世界文学アンソロジー」を編んだところで、シェイクスピアやダンテといった西洋文学のカノンの中核をになう男性作家を締めだすことはできない。全体の頁数を増やさずに、多様性や平等を実現しようとすれば、どこかで調整が必要になってくる(引用者注:「平等」に傍点)。そのためのしわ寄せが、北米の読者からはあまり知られていない地域にきてしまっているのではないか。エドガー・アラン・ポーやハーマン・メルヴィルははずせなくても、極東の文豪をマイノリティ女性作家にいれかえることは心理的にたやすい。同種の現象がほかのよりマイナーな地域の文学でおこっていても不思議ではない。
「世界文学」を「世界中の文学」という意味で使う人間はいない。「世界文学」はある一定のルールに基づいて選別されている(ソ連の『世界文学叢書』からプルーストが排除されたように)。今度、そのルールが変更され、シェイクスピアや『ドン・キホーテ』がアンソロジーから取り除かれていくことだってありえない話ではない。むしろ、異なるルールで編まれたアンソロジーが複数存在しない限り、「多様性」を確保するのは難しいだろう。
本書では、今後「世界文学」を研究するにあたって目指すべき方向性も書かれている。文学そのものだけでなく、文学の受容のされかたにも興味があるなら、必読だろう。