ラブホテルのスーパーヒロイン⑥

 結局、風呂についてはよくわからないまま当日を迎えた。家族には、「映画を見てくる」と告げ、家を出た。今日は、朝から性的熱狂で脳が沸騰していた。なぜなら、この日のために月曜日からオナ禁していたからだ(日曜日には最後の晩餐とばかりに、いつもより時間をかけオナニーした)。特に前日の木曜日なんか、オナニーの禁断症状が一段と激しく出て、何度もペニスに手が伸びかけたが、「ここで抜いたらお前は何のために禁欲してたのか」と強く自分に言い聞かせることで、何とか危機を脱した。本当にこの時ばかりは、抜かないと発狂すると思ったぐらいで、視界に入るもの全てが性欲をじゅくじゅくと刺激してきて困った。中学三年の時に、二週間野尻湖でのキャンプに参加し、その間強制的にオナ禁状態になったことがあったが、その時も溢れかえった性欲によって世界がかなり変わって見えた。その時以来の経験だった。会社でも火曜日からずっと風俗のことしか頭になかったので、机の下で勃起して参った。一番恐れていたのは夢精で、小便してる最中も精子が一緒に出るんじゃないかとびくびくしていたが、何とか無事当日を迎えられた。とにかく、自分がオナニー・ジャンキーであることがよくわかった四日間だった。
 ちょっと早めに家を出たので、ヒロインの檻の最寄りであるC駅に着いたのは、十六時前だった。港区の学校に通っていたから、品川区にあるC駅もたまに寄ることがあった。特に駅前にあるカラオケ屋は、毎年文化祭の時期になると、学校を抜け出したうちの生徒で貸し切りになるぐらいだった。俺は友人と駅近くのブックオフに寄ったりしていたが、オフィス街という印象が強く、風俗街としての側面も持っていることを知ったのは大学に入ってからだ。
 店に確認の電話を入れる前に、風俗街としてのCを知ろうと辺りを亡霊のようにうろついてみた。確かに、案内所やラブホテルが立ち並んでいる。高校の時は東側しか行ったことがなかったので、西に林立するラブホテルの存在には気づかなかったのだ。
 金曜日といっても、昼と夕方の間ぐらいだから、まだ街に活気はなかった。当然、路地裏にあるホテルや案内所にも人気はなく、ビルの取り壊し現場だけに人がいて、作業員がだらだらと仕事していた。人のいないホテル街は、なんとも寒々しく、性の残骸といった風だった。まるで使い終わった後のコンドームのようだ。俺は適当にそこらを歩きながら、「バットウーマン、ついに見つけたぞ。逮捕する」という自分のセリフを脳内で何十回も繰り返した。セックスへの強い期待とセリフをきちんと言えるかという巨大な不安がぶつかりあっていた。
 十六時になって店に電話すると、「予約時間の十分前にまた電話していただけますか」と告げられた。確認の多い風俗店だ。この時は、男ではなく女が出た。俺は時間を潰すため、駅前の喫茶店に入った。他に休める場所がないからか、ここには結構人がいて、席もほとんど埋まっていた。俺が座った席の隣では、大学生らしき二人が、よくわからない爺さんにインタビューをしていた。就職に関することらしく、インターンとかチンポが萎えるような言葉が耳に入りうんざりした。
 俺は持っていた田山花袋の『田舎教師』を開いた。ちょうど、童貞の主人公が一人で遊郭に行く場面。彼が、店の前で臆病風に吹かれるところや、あがった店で「自分の初心なことを女に見破られまいとして、心にもない洒落を言ったり、こうした処には通人だという風を見せたりしたが、二階廻しの中年の女には、初心な人ということがすぐ知られた」という個所に共感した。
 時間になって店を出、ラブホ街から電話をかける。今度は、ホテルに入ったら電話をかけてほしいとのことだった。探偵映画ばりに電話で指示ばかりされている。
「ホテルは既にお決まりですか? お決まりでないようでしたら、こちらから勧めているホテルがあるのですが」
 目星をつけているところはあったが、一応「このあたりは初めてなんで」と聞いてみると、
「ホテル・メープルというのが、駅から近くて、値段も安いので、いつもお客様にお勧めしております」という。
 俺が狙っていたところとまったく同じだったので、そのままメープルへ。自動ドアを抜けると、でかい液晶パネルがあり、それで好きな部屋を選ぶというシステム。一番安い部屋は既に埋まっていたので、二番目に安い四〇二号室をチョイス。
 部屋は真っ暗だった。ショッピングモールで迷子になった子供の如く右往左往すること二分、ようやくスイッチを発見。荷物を下ろし、上着を脱ぐ。玄関から入ってすぐ右が風呂・トイレ、左がベッドという間取り。人生初ラボホなので、目に入る物全てが新鮮。これが、うわさのラジオか、と枕元にあるスイッチをいじる。よくわからないR&Bが流れる。一人で聴いても情緒がないのですぐに切る。小便をしてから、ヒロインの檻へ電話。
「今、ホテルにつきました。メープルの四〇二号室です」
「承知しました。では、ヒロインが到着したら打ち合わせはしますか?」
 本当なら念入りに打ち合わせした方が良いのだろうが、思わず人見知りを発揮してしまい、
「あ、いや、大丈夫です」と答えてしまった。
「では、ヒロインが到着するまでに、先にお風呂に入っていただいてもよろしいでしょうか」
 あ、この段階で風呂に入るのねとようやく答えが出た。
「はい」
「お風呂から出た後は、裸になって、上にバスローブだけ羽織って待っていてください。ヒロインが到着したらアタッシュケースを渡すので、中身を確認してください」
「はい」
「あと、ヒロインが入室した時点で、プレイは始まっていますので、そのつもりでお願いします。それから、お金は到着した時に払う形となっていますのでその準備もお願いします」
 電話が終わると、すぐに風呂へ。俺はタオルを使って入念に身体を清め、バスローブに着替えた。バスローブの下はいつでもミサイルが発射できるほど、完全に臨戦態勢が整っている。それから待つこと五分。
 コンコン。
 ドアをノックする音。俺は気色の悪い笑みを強引に噛み潰し、冷静にドアを開ける。
 ドアの前には緑のコートを着た小柄な女が立っていた。
 ん? あれ? なんか思っていた人と違うな…… 俺としてはもっと女王っぽい感じの人を選んだつもりだったのだが…… しかし、今俺の目の前に立っている女は、主婦的な生活感に溢れていて、年齢も二十七ではなく三十五ぐらいに見える…… 確かに、プロフィール写真では顔を隠していたが、雰囲気はもっとクールだったはずだ…… それが、どこか疲れた空気すら漂わせている…… しかし、今ここにいるんだから、確かに本人なはずだ……
「中に入るわね」
「あ、どうぞ」と俺は動揺を隠しつつ返事した。
 ヒカリは手に持っていたアタッシュケースと大きな手提げをソファーの近くにあったガラスのテーブルの上に下ろし、コートをハンガーにかけた。
 いや、確かに期待とは違ったが、そんなに悪くはないなと思い直す。それに衣装を着ればまた違った風に見えるはず。レッド・ルーフのAVを鑑賞している時も、女優の顔というのはあまり気にしていなかったのだから。
「あなたが依頼人ね」
「ああ」
 俺は役になりきるため、いつもより渋い声を出し、ハンフリー・ボガートのような苦み走った顔を演出した。返答の仕方も「はい」ではなく、ハードボイルド調の「ああ」に変えた。
「依頼されていたものを渡すわね」
「ああ」
 俺は彼女からアタッシュケースを受け取った。
「それじゃあ、この封筒に報酬を入れてもらえる?」
 俺はリュックから財布を取り出し、事前にメールで指定されていた金額「三万千三百二十円」を入れた。彼女はそれを確認すると、
「じゃあ、私はボスに電話をするからちょっと待ってね」
「ああ」
 ヒカリはトイレの前に行き、電話をかけた。
「ボスただいま到着し、報酬を受け取りました」
 そして、電話が終わると、「準備をしてくるから、ここで待機していてちょうだい」
「ああ」
 さっきから、「ああ」しか言ってないな、俺は。一生分の「ああ」を使い切った気がする。
 彼女はベッドルームとバスルームの間にある扉を閉めた。そのうちにシャワーを使う音が聞こえてくる。
 俺はアタッシュケースを開き、いそいそと中身を確認した。中にはピンク色の電マ、延長コード、ローション、コンドーム、手錠、それからヒロインを倒すための光線銃が入っていた。デンマはコンセントに刺して使うタイプらしく、延長コードとデンマを組み合わせ、デンマの使用範囲を伸ばした。試しにスイッチを入れてみると、ヴンンンンンという無味乾燥な音を出して振動し始める。「なるほど」と心の中で呟き、電マはヘッドボードの上に置いて、今度は光線銃を手に取ってみた。リボルバー式で、照準器までついているけど、当然ながら飾りである。むしろ、そういう過度な装飾が安っぽさを醸し出している。引き金を引くと、ちゅるるぎゅうううんちゅるるぎゅうううん、という何を表現しているのかよくわからない音を出した。
 いつ彼女が風呂から出てくるのかわからないので、光線銃を持ったまま、ベッドの脇に立った。全裸にバスローブを羽織り、おもちゃの銃を持って、一人突っ立ている二十八歳。客観的に見れば、完全に狂人である。しかも、勃起までしている。早く出て来てくれないかなと願いつつ、汗の滲む手で光線銃を握りしめるも、中々登場する気配がない。何もすることがないので立っているしかないのだが、そうすると「俺はここで何をしてるんだろう」という疑問が鋭い矢のように降ってくるので、早くプレイに入りたかった。空調機の音だけが、静かに室内に響き渡っている。俺は光線銃をこめかみに当てて、ロシアンルーレットの真似をしてみた。ちゅるるぎゅうううんちゅるるぎゅうううん。

 

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ラブホテルのスーパーヒロイン⑤

 シナリオを書き上げた後、ホームページでヒカリの予定を確認したら、二十五日出勤となっていたので、ひとまず安心した。以前予約した風俗店は、サイトに予約用のフォームがあったのだが、「ヒロインの檻」にはそれがなく、取り敢えず「お問い合わせ」のところから「日時:一月二十五日 時間:十七時 コース:シナリオ・コース ヒロイン:ヒカリ 衣装:バットウーマン プレイ時間:六十分」で予約のメールを送った。時間を十七時にしたのは、それが彼女の一番早い出勤時間だったからで、その日の最初の客を狙っていた。
 すると次の日、さっそく返信が来た。「一度ヒカリの方に確認し、確定できましたら再度メールを送らせていただきます」と書いてあったので放置していたら、水曜日になっても返信がないのでさすがに不安になり、もう一度メールを送った。今度はシナリオも添付して。そしたらすぐに返事が来て、予約が確定したとのことだった。
 ちょっと面食らったのは、「予約前日に確認の電話をお願いしています」という一文で、前の風俗では予約メール一本送った以外特に何もなかったから、結構念入りなんだなと思った。デリヘルと箱ヘルの違いというのもあるかもしれない。
 しかし、困ったことが一つあった。俺は実家住まいなのである。まさか、家からかけるわけにもいかないが、周りにも聞かれたくない。こういう時、他の実家住まいの人間はどう対処しているのだろうか? とにかく、足りない知恵を無理やり絞った結果、会社帰りに自宅の最寄り駅近くからかけることにした。俺が使っているNという駅は、ベッドタウンを維持するためだけに存在している、寒風が似合う寂れた駅で、電車が到着する時ぐらいしか人がいないからだ。グーグルの口コミでは、「最果ての地」と書かれていた。
 木曜日、俺は駅の横にある、かつて郵便局で現在廃墟と化した建物に寄りかかった。風俗店に電話をかけるのは初めてだから緊張した。それに、誰かが突然現れるかもという不安もあった。目の前の国道を走る車の音も、いつもよりうるさく感じる。しばらくサイトに掲載された電話番号をじっと凝視したり元郵便局の周りを歩き回ったりという不審者まるだしのムーブを何度か繰り返し、やっと決心をつけて電話をかけた。
「お電話ありがとうございます。ヒロインの檻です」
 男の声だった。俺は女の店長がいる店というイメージをかなり強く持っていたから一瞬ビックリしたが、まあ男の従業員がいるのはおかしなことじゃないよなと気づき、
「金曜日の予約の件で電話した範多ですが」と返した。
「ご予約ありがとうございます。では、申し訳ないのですが、明日の十六時にまた確認のお電話をお願いしてもよろしいでしょうか」
「あ、わかりました」
 確認に次ぐ確認だな。玉ねぎの皮を剥いているみたいだ。まあ、こちらとしては従う以外ないのだが。
 電話を切った後、そういえばどのタイミングで風呂に入ればいいんだろうということが急に気になってきた。前に経験した風俗では、部屋に備え付けられていたシャワーを、男の娘と一緒に浴びたが、別々にホテルに入るデリヘルでは、どういうことになっているのか。つまらないことでも、一度気になると、どこまでも考え続けてしまうという悪い癖が俺にはあった。
 少し話が前後するが、日曜日にシナリオを送った後、俺はサイトに載っていた体験動画を何度も見た。なぜなら、普通の風俗と違って、どちらも過剰な演技をする必要があるから、羞恥心の強い自分としては参考になるものが欲しかったのだ。中でも鬼門となっていたのは、やはり俺がシナリオに書いた導入の部分で、そこを一番確認したかった。体験動画では、女がホテルに入ってくるところから始まり、ヒロインを倒すための道具が入ったアタッシュケースを客に渡す。彼女が風呂に入って準備している間に道具を取り出し、着替えを終えた彼女が風呂から出て来た刹那、プレイ開始となる。客側のセリフはカットされているが、女の方は「わたしがあなたを倒す!」と勇ましい様子が記録されている。その真剣さは、風俗店としての質を保証するものだったが、自意識過剰の俺がそれについていけるのかという疑問が深く残った。
 もう少しサンプルが欲しいと思い、別の体験動画を検索したら、女性向けAVを作っているメーカーのページがヒットした。説明を読むと、イケメン男優が実際の風俗を体験するという企画で、一部で話題の店として「ヒロインの檻」が選ばれたようだ。女よりも男がメインのAVだが、むしろその方が流れがわかって良いかもしれないと考え、購入した。一二八〇円だった。
 実際、サイトに載っていた体験動画よりも、流れが逐一記録されていて、こっちの方が参考になった。動画に出てくる向井理風の男優もシナリオ・コースを選択していたが、相手に言わせるセリフとして、「ちんちん」じゃなく「おちんちん棒」というワードをチョイスしていたのには、微苦笑せざるを得なかった(本人も自分の書いたシナリオを読み上げながら、思わず苦笑していたが)。まあ、それはともかく、さすがにプロの男優だけあって緊張した様子を見せることもなく、流れるように特異なプレイに突入していたが、俺にはこんなスムーズに演技するのは無理だと思った。元々感情を表現するのがめちゃくちゃ苦手なうえ、演技経験がゼロなのだから。
 なので、図書館に行って演技について書かれた本を適当に二、三冊借りてみたが、数日でどうにかなるものではないことだけがわかった。当然だ。カラオケ屋に一人で入って練習しようかなとも少し考えたが、面倒くさいのでやめた。それに、俺のセリフは一言だけなので、まあ何とかなるだろうと高を括ってもいた。俺は俺なりのメソッド演技で勝負する。それだけだ。

 

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ラブホテルのスーパーヒロイン④

                2 実践編

 

 私には夢がある。特撮ヒロインのコスプレをした女とセックスしたいという夢が。しかし、それを頼むための彼女はいないし、コスプレをメインにしたいわゆる「イメクラ」と呼ばれる風俗も、女子高生とか女医とかOLとかありきたりなものばかりだった。そういう店に自分で衣装を持ち込む剛の者もいるらしいが、そもそも風俗に強い抵抗感があったのでそこまでの情熱は持てず、結句、二十八年間童貞で過ごし続けることになった。
 去年の梅雨頃、暇だったので5chのレッド・ルーフのスレッドをぼんやりと眺めていたら、品川区の某所に特撮やゲーム、アニメのヒロインのコスプレを専門とした風俗ができたという書き込みが目に飛び込んできた。だが、その時点ではまだ風俗に忌避感があったし、無職で金もなかったので、「ふーん」と思うぐらいでやり過ごし、すぐに忘れた。
 それが、夏に就職し、大阪の友人に会いにいったついでに、「男の娘」で童貞を捨てたことから(「童貞と男の娘」参照)、風俗への抵抗感がだいぶ薄くなって。それから数カ月経った時に、ふと5chの書き込みを思い出し、今度はそこに行こうと思い立ったのであった。
 その風俗は、「ヒロインの檻」という名前だった。分類としては、「イメクラ」になる。サイトを見ると、四つぐらいコースがあったが、特に目を惹いたのは「シナリオ・コース」で、自分の書いたシナリオを実践してくれるというもの。せっかく行くなら「シナリオ・コース」にするかと思い、次に料金表を確認すると、入会金・指名料合わせて六十分で約三万だった。高い! 自分が夏に行ったニューハーフ・男の娘の店は、一万五千円だったので、その二倍である。しかも、ホテル代もかかるから、最低でも四万近くは風俗代として確保しておかなければ安心できない。だが、自分の給料は手取りで十六万弱(なんでそんなに薄給のところに務めているのかといえば、仕事が楽だからだ)。そこから一気に出すのはかなり厳しい。仕方がないので、冬のボーナスに全てをかけ、それまで雌伏することにした。
 ヒロインの檻は他の風俗店に比べるとTwitterでの発信にわりと熱心らしく、店長や女の子がよく、店の情報とか衣装、その日のプレイについてツイートしていて、否が応でも期待が高まった。驚いたのは店長が「女」だったことだが、今ではむしろ珍しいことじゃないのかもしれない。彼女は、動画配信で店の宣伝をしたり、ネタツイートでフォロワーを笑わせようとしたり、ある種名物店長といった感じで、店を盛り上げようとしていて、そのやる気はこちらにもよく伝わった。

 

 十二月二十日。始業とともに会社の給与情報ページが更新された。俺は仕事そっちのけですぐにそのページを確認した。
「三万二千円」
 これがボーナスの額だった。俺は一瞬激しいめまいに襲われた。口から泡を吹いて倒れそうになった。世界がずぶずぶと沈み込んでいくような感覚を味わった。何だこれは。俺のボーナスは給料の一月分じゃなかったか…… どうやら、俺が一月分と思っていたのは実は半月分で、しかも中途入社だから元々低いボーナスがさらに低く支給されたようだ。作家の広津和郎が、毎夕新聞に務めていた頃(「蒲団」で有名になった永代静雄が社会部長を務めていた)、年末にボーナスが出たが、額が少なすぎるので「餅代」という名称で配られたというエピソードを『年月のあしおと』の中で書いていたが、まさに俺のもボーナスと呼ぶには恥ずかしすぎる金額だった。
 しかし、どうにもならないので、それを全て風俗代に充てることにし、それ以外は十二月分の給与から出すことにした。
 とにかく、金は確保できたので、あとは予約するだけだが、なにせ金額が金額なので指名する嬢から衣装、そしてシナリオに至るまで慎重に設定しなければならない。
 自分は精神的な意味で「マゾ」だということを数年前から自覚していたので(むち打ちとかロウソク垂らしみたいな、本格的に痛そうなのはNO)、方向性としては、男が悪女に犯されるというプレイを考えていた。俺はAVを視聴している時でも、感情移入しているのは女優側で、その相手も女、つまりレズビアンものを観て、自分が「女」になった気分でオナニーしていた。女優が男装し、女から犯されているものを観ることもあった。子供の頃、母親にヒーローではなくヒロインの人形を買ってもらった伏線がここにきて回収されたのかもしない。
 ということで、実際のセックスの時でも自分が「女」であれば完璧なのだが、それはないものねだりとして、とにかく冷酷な雰囲気を持った女を相手役には選ぼうと思い、サイトのプロフィール写真を順々に見ていったが、目元を手で隠している人が多く、容姿ではいまいち決め手に欠けた。プロフィール写真では、それぞれがヒロインのコスプレをしているのだが、何人か悪役っぽい衣装を着ている人がいて、その中から二十七歳のヒカリという女を選んだ。悪役っぽいというのは、全身が真っ黒だったからという単純な理由。しかし、そのボンデージをモデルにした衣装自体にはあまり魅かれなかったので、本番では「バットウーマン」風というのを選択することに。それが、具体的にどんな衣装かというと、黒のハイレグ、黒のロング・ブーツ、金のベルト、紫のマント、それからバイクのゴーグルといった組み合わせ。バットウーマンは別に悪役ではないが、数ある衣装の中でそれが一番悪役っぽく見えた。ちなみに、プレイ中にヒロインを倒すための道具というのもあって、光線銃とか近づけるとヒロインが怯む石とか色々あり、その点も凝っていた。
 さて、シナリオだが、まさかドラマみたいに何ページも書くわけにはいかないし、そもそも俺も相手も覚えられない。だから、セックスへの導入として、二言三言程度で済ませればいいのだが、それすらもなかなか思いつかない。善側である男が、悪側である女に捕まって犯されるというところまでは決まっているが、具体的なセリフとなるとまるで出てこない。
 店のサイトで、出勤スケジュールが発表されるのは毎週日曜日。有給の申請は最低一週間前にするのが、暗黙の了解でもあったから、スケジュール発表前の十八日(金曜日)に二十五日の有給をとった。平日を選んだのは、その方が客(ライバル)が少なく、プレイが丁寧になるような気がしたから。ヒカリの出勤を見ると毎週金曜日には出ていたから、二十五日にしたのだが、まあ、ダメだったら別の人でもしょうがないと諦めていた。
 とにかく、スケジュールの発表される日曜日の夜までにはシナリオを仕上げ、自分の希望が確実に通るよう、すぐにでも予約できる状態にしたいと思い、その前の週から一週間、仕事終わりにパソコンに向かい続けた。大江健三郎アメリカ文学とかを読んで純文学の小説家を目指していた俺が、純文の「ジ」の字もない、風俗のためのエロシナリオに必死になって取り組んでいるこの状況を冷静に見つめると、自然に自嘲的な笑みがこぼれてしまうこともあったが、設定した期限が近づくにつれ焦りの方が勝ってきた。そして、とうとう一文字も思いつかないまま日曜日になった。締め切り間近になっても何も書けないストレスから妻をぶん殴っていた井上ひさしと同じくらい追い詰められていた。
 その内に、シナリオが書けないのは、どうも自分が構築しようと思っている世界に本気になれていない、入り込めていないからだと気づいた。
 それで、参考にしようと思い、レッド・ルーフの作品の中でも特にお気に入りのやつを何本か見直した。AVを初めてオナニー以外の用途で使った。それでもイメージはなかなか湧かなかったが、女優が男装している作品を視聴したら、ようやくその世界観にのめり込めるようになったのか、眠っていた想像力が少しずつ動き始めた。そして、書き上げたのが以下のやり取りである。

 

男「バットウーマン、ついに見つけたぞ。逮捕する」
光線銃を撃つも、まったく効かない。
バットウーマン「あら、私にそんなもの効くと思ったの?」
銃を奪い取るバットウーマン
バットウーマン「撃たれたくなかったら、そのまま服を脱いでベッドに行きなさい」
ベッドに横になる男
バットウーマン「私の性奴隷にしてあげる」

 

この後は、逆調教コースのような流れでお願いします。

 

 OK、わかってる。これ以上何も言わないでくれ。俺もこれで岸田國士戯曲賞をとろうとは思っていない。

 

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ラブホテルのスーパーヒロイン③

 レッド・ルーフの作品を初めて購入したのは、多分高校二年ぐらいだっただろうか。それまでは、サイトのサンプルとかYouTubeやエロサイトに違法アップロードされた数分程度の断片しか観られない、食べ飽きたオカズを強引に消化するような不満足な日々を過ごしていたのだが、レッド・ルーフが出版事業にも実験的に手を伸ばしたことがあって、その時にDVD付きのムック本を五号くらいまで出したのだが、それが三千円程度とかなり安く、一万円で外れをつかんだならダメージも大きいが、三千円なら許容範囲と、秋葉原にあるレッド・ルーフの運営する販売店に赴いたのだった。
 それは、小雨が降りしきる鬱陶しい日だった。販売店は、駅から少し歩いたところの、薄汚れた雑居ビルの地下にあり、誰にも見られていないことを入念に確認してから、狭く急な階段を慎重に下りた。壁に設置された赤いライトと蔦模様の壁紙が、悪者のアジトのようなおどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。下りると、入口の横に、撮影に使ったマスクやスーツといった小道具がガラスケースの中に展示されていた。ピンチシーンの撮影に使ったことを示すため、あえてボロボロのものが飾ってある。中にはいると店内は薄暗いうえかなり狭く、すれ違うだけでも苦労しそうな感じだったが、幸い客は誰もいなかった。万引き防止のためか、レジは入口のすぐ脇にあったが、互いの顔が見えないように、小さな受け渡し口以外はスモークガラスのようなもので覆われていた。段々と背徳感が襲ってきて、心臓が病的なほど鼓動し始めた。
 濃厚な赤色ライトに照らされながら、全身一本のペニスとなって、棚を物色していると、在庫整理なのか、数年前の作品が三本セットになって抱き合わせで販売されているのを見つけた。直売店オリジナルの商品らしい。これなら経済的だが、色々迷った挙句、当初の目的通りのブツを購入した。
 家に買ってからゆっくり鑑賞しようかと思っていたが、店に入った時からズボンが苦しくなるぐらいパンパンに勃起し続けていた俺は、どうしても我慢できなくなり、目を血走らせつつ、適当なネットカフェに猪のごとく突入した。そして、黒い袋から中身を取り出し、付属のDVDをパソコンのドライブに挿入した。既にパンツはやや濡れていた。動画再生ソフトが起動するまでの間、オナニーへの大いなる助走として、ムックの方を流し読みした。新作の紹介と女優のインタビューで構成されたそれは、脳味噌が性欲のクリームで覆われてしまった俺にはまるで物足りなかったが、DVDの方は、レズビアン要素のある、素晴らしいもので、三千円以上の価値があった。
 しかし、問題は多量の精液を放ったティッシュを捨てる場所がなかったこと。仕方がないので、(オナニー用の)ティッシュは備え付けられているのに、ゴミ箱がないという画竜点睛を欠くその部屋から出る前に、黄ばみ始めた使用済みティッシュを何重にも新しいティッシュで包んでから鞄に入れ、外に出た。それで、ゴミ箱を求めて歩いているうちに、唐突に梶井基次郎の「檸檬」を思い出し、この紙の爆弾をどこかに置いてこようかなんて考えたのだが、さすがに本屋に放置するほど反社会的な人間ではないので、野球ボール大のそれを、自宅近くの歩道橋の端側に捨て、朽ち果てていく様子を毎日観察しようと試みた。そして、しばらくそれはそのままになっていたが、溶けて地面と一体化する前に、いつのまにか誰かに片付けられ、きれいさっぱりなくなった。

 

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ラブホテルのスーパーヒロイン②

 家にパソコン(ウィンドウズ95)とインターネットが導入されたのは、俺が五年生の時で、祖母が仕事でeメールを使うためだった。当時のダイヤルアップ接続は、定額制ではなく、速度もカタツムリのように低速で(おまけに、不穏な電子音まで鳴り響く)、家族も仕事以外ではパソコンに触れなかったため、コンピューターに興味を持たないまま、中学に進学した。
 中学受験をしたので、港区にある偏差値五十程度の中高一貫・男子校に進学したのだが、やたら「オタク」が多い学校で、ネットの世界に様々な情報やコンテンツがあることを教えられた(その大半がくだらないものだったが)。ちょうど、家でもパソコンを95からXPに乗り換えた時で、ネットへの接続方法もダイヤルアップからブロードバンドに切り替わり、定額制で速度も格段にスピードアップしたため、ネットサーフィンが日常茶飯となり、それによって知ったのが、ヒロインのピンチ(ネットでは「ヒロピン」や「リョナ」という名称でジャンル分けされることが多い。ただし、「リョナ」は二次元に限ることも)に欲情する人間は、俺一人ではなかったということ。
 グーグルなどの検索エンジンを使うと、そこには好事家の手による小説やイラストなどの爛れた二次創作がいくつも転がっていた。だから、以前のように、わずかなピンチシーンを期待して戦隊ものを録画する必要がなくなり、戦隊もの自体見なくなった。元々、特撮そのものには一切興味がなく、ヒロインのピンチにだけ関心があったのだから当然だろう。
 二次創作だが、活字好きの俺としては、よく小説の方を読んだ(イラストは猟奇的なテイストの強いものが多く、趣味に合わなかったというのもある)。そこで気づいたのは、自分は「臭い」に対しても、異様な興味を持っていることで、前述したハリケンブルーが納豆をモチーフにした怪人に悪臭で攻撃されるという二次創作にすごく興奮したことを覚えている。しかし、アマチュアによる二次創作以上に驚愕したのが、ヒロピンに特化したAVが制作されているのを知った時だろう。
 レッド・ルーフというそのメーカーは、元々SMや熟女といったマニアックな分野においてそれなりに有名だった。しかし、二十一世紀に入る前ぐらいから競争が激しくなり、新たな客層の獲得を模索していた時、コミケでコスプレが流行っていることを知り、試しに人気ゲームのパロディAVを制作してみたところ、意外にヒットしたことから、得意としていたSMをあっさり捨て、今ではほぼ特撮系AV作りに特化した会社となっている。
 レッド・ルーフのホームページを覗いてみて、まず目に飛び込んできたのが、一本一万弱というDVDの値段。一般的なAVの三倍~五倍近い価格だ。ニッチなジャンルだし、制作コストも普通のAVより高くつくのだろうから、単価が高くなるのは当然なのだが、その強気な値付けで、生き馬の目を抜くアダルト業界を現在に至るまで十年以上も生き延びているのは驚異としか言いようがない。だが、中学生の俺には当然一万円近くもするAVに手が出るはずもなく、一分程度の画質の荒いサンプルで満足しなければならなかった。だから、この時ほど早く大人になりたいと思ったことはないのである。
 戦隊もののパロディAVは、レッド・ルーフ以外の会社もお情け程度に手掛けているが、全てがおふざけの域を出るものではなく、未だレッド・ルーフの一人勝ち状態。レッド・ルーフの何が画期的だったかといえば、衣装・演出・演技・脚本・セットのクオリティを、限りなく本家に近付けたこと。これは他の追随を許さないという状況になっている。もし他のメーカーが今からレッド・ルーフの域までたどり着こうと試みるならば、それなりの設備投資や詳細なノウハウが必要で、利益を出す前に潰れてしまうだろうから、レッド・ルーフの牙城はよほどのことがない限り今後も崩れないだろう。ちなみに、アメリカのどこかのメーカーが、やはりヒロインのピンチにテーマを絞ったAVを何十本も出していて、何本か見てみたが、その演出方法はレッド・ルーフに倣っているようだった。しかし、まだまだ演技は単調すぎるし、映像もただ映してみたという感じで、レッド・ルーフの出来には遠く及ばない。
 むろん、レッド・ルーフのAVも最初から完成していたわけではなく、俺が見始めた頃は、まだまだ手探りの段階で、いかにもAVらしい安っぽさを漂わせていたが、試行錯誤していくうちに、段々と洗練され始めたのである。
予算の都合や撮影の大変さからか、人気女優がレッド・ルーフに出演することはあまりない。他のメーカーだったら「熟女」枠に入れられてしまうような人が多かったりする。だから、大学時代にレンタルビデオ店でバイトをしていた時、AVコーナーに作られた「人気女優ベスト10」という特集を見ても、取り上げられていた女優がほとんどわからなかった。
 しかし、特撮系AVに必要なのはルックスよりも演技力なので、新人よりかはベテランの方が適していると言えるし、吹き出してしまうような恥ずかしいセリフを抵抗なく言うには、ある程度の経験、能力、気合が必要になる。これは後に、俺が否応なしに実感したことでもあるが……
 ちなみに、自分がオナニーを覚えたのは中学二年の時分である。それまで言葉だけは知っていたが、なぜかそれ以上調べる気が起きず、興奮によって起立したペニスもそのまま放置していたし、夢精することもなかった。きっかけは、音楽の授業中に、クラスメイトから突然「氷川って、オナニーしたことある?」と尋ねられたこと。どうも、十四歳でオナニーをするのは普通かそうではないのかということを、二人のクラスメイトが議論していて、いかにも真面目そうな俺から回答を引き出すことで、その決着をつけようとしたらしい。そこで俺が咄嗟に「ある」と答えると、「ほらな、みんなあるんだよ。お前だけだよ、してねぇの」ともう一人が勝ち誇ったように言い、俺はそれを聴いて、早くオナニーをおぼえなければと内心焦ったのであった。
 やり方は当然ネットで検索した。そこで初めて、手で陰茎を擦るということを知った。子供の頃に登り棒で偶然オナニーを知ったという男の話をよく聞くが、俺にはそういう経験がなかった。また、挿入を基調とした普通のセックスにあまり興味を持っていなかったことや、勃起自体、エロとは無関係な場合でも起こり得たので、ペニスをそういう性的な器官としてみなしていなかったことも、オナニーの習得に出遅れた要因だと思う。
 とりあえず見られる心配のない風呂場で実践してみようと、生まれて初めて自分で自分の包皮を剥いてみたら、リング状になった恥垢が亀頭のくびれた部分に苔みたいにびっしりとへばりついていたのには絶句した。すぐにそれをシャワーで洗い落とし、おもむろに擦ってみるも、あまり気持ちよくなく、とりあえずそのままずっとやり続けているうちに、少しずつ興奮してきたが、さほど絶頂感のないまま薄い精液が弱々しく出た。それでも亀頭の洗浄も兼ねて、一週間に三~五回の割合でオナニーしていたら、ある日風呂場を掃除していた祖母から、「排水口に白っぽい物が詰まってるんだけど何かわかる?」と聞かれ、質問された瞬間は、何も考えずに「知らん」と返事できたのだが、すぐにそれが熱で固まった精液だと気づき、爾来風呂場でオナニーするのは止め、パソコンの置いてある部屋でティッシュに出すスタンダードなスタイルになった。

 

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ラブホテルのスーパーヒロイン①

──ところがねえ! どうしてもあの人に言う度胸が出ない、おかしな願いがあるんだと言っても、あんた信じてくれるかしら? ──あたし、あの人が、医療器具入れをもって、上っぱりを着て、ちょっとぐらいその上に血がついたままで、会いに来てくれればいいなあと思ってるのよ!

              ボードレールマドモワゼル・ビストゥリ」阿部良雄

 


               1 せんずり編

 

 俺は五歳の時から変態だった。性の目覚めのきっかけとなったのは、当時放映されていた、『忍者戦隊カクレンジャー』である。もちろん、最初は子供らしく漫然と観ていたのだが、冬の日に観たある奇抜なエピソードが、バラバラのパズルのように未完成だった性の回路を、ピタッと繋げてしまった。それがどういうストーリーだったかはもはや忘却の彼方だが、ずっと印象に残っている部分がある。それは、眼鏡をかけた子供がバスの中で漫画を読んでいて、そこにケチャップをこぼしたところ(紙の上に芋虫の如く盛り上がったケチャップとその鮮烈な赤い色は、今でも気持ち悪いほど鮮明に脳裏にこびりついている)、カクレンジャーらが強制的に敵のいる空間にワープさせられるという瞬間。そして、その空間では、全てが敵の思うままで、カクレンジャーらは苦戦を強いられるという展開。と、ここまで書いてみたら、詳細が気になりむずむずしてきたので、話の粗筋をネットで確認してみると、敵がカクレンジャーの敗北するシーンを漫画にし、それを友達のいない男の子に読ませたら具現化された、というやけに陰鬱な話で、そうした設定も俺の心の襞に触れた要因だったのかもしれない……
 とにかく、それ以来、彼らが敗北する姿に暗く湿った魅力を感じるようになった俺は、就寝時になると、布団の中でカクレンジャーが敵にやられた時のことを思い出したり、新たに自分で妄想したりしては、密かに興奮の炎を燃やすのが日課となった。特に、相手の戦闘員に首を絞められ、苦しみもがく姿が、お気に入りのネタだった。無論、その時点では、「性」のことなど何もわかっておらず、なぜか心臓や股間に心地よいざわつきを覚えるからという理由でそんなことをしていた。
 不思議なのは、言語能力が未発達な段階で、こういう特殊な認知を獲得していくことだが、三島や谷崎、ヴィクトル・ユゴーといった人々の小説・伝記を読むと、彼らも五歳ぐらいで変態的な性の目覚めを経験していることがわかって面白かった(「作家の性癖」参照)。
アンリ・トロワイヤの『ボードレール伝』にも、五歳で父を失ったボードレールが、「母に隠れてこっそりと、箪笥の奥にしまわれた下着や、母の匂いの染みついた毛皮に鼻を埋め」ていたと書かれていて、彼は後に『パリの憂鬱』と題した散文詩集の中で、コスプレをテーマにした詩を入れた。それが「マドモワゼル・ピストゥリ」で、ボードレールの詩にも思想にもライフスタイルにもあまり感心していなかった俺が、唯一これだけはよくわかった。
 話を戻そう。
カクレンジャー』の次に放映されたのが、『超力戦隊オーレンジャー』で、この時、母にわざわざヒロインである、オーピンクの人形を買ってもらったことを強く記憶している。子供というのは、幼稚園・保育園の段階でさっそく異性を意識するものらしく、自分も一人の女の子をめぐって、別の園児と喧嘩したこともあった。『オーレンジャー』の放映時には、小学校一年だったから、カクレンジャーの時以上に、ヒロインを「異性」として捉えていただろう。
 しかし、男であれば幼いころから同性のヒーローに憧れ、彼に自分自身を重ねるべく、欲しいおもちゃもそれに準ずるものになるのが普通だが、そういう視点は端からなかった(同じ特撮ものでも、男しか出てこない仮面ライダーウルトラマンには一切興味がなかった)。ヒーローではなくヒロインの玩具を選んだ息子に対し、母がどう思っていたかはわからないが、子供の気まぐれとして処理したのだろう。俺自身は、自分の妄想が異端的なことだとはっきり認識していたから、本当のことは何も言わなかった。
 小学校三、四年になる頃には、周囲の同級生で戦隊ものを見ている人間はほとんどいなくなり、むしろ「子供っぽい」ものとしてはっきり馬鹿にされるようになった。よって、俺も戦隊ものを「卒業」したかのように振る舞い始めたのだけど、その結果、毎年新たに放映されるそれを、家族の前で観ることができなくなった。年齢が上がるにつれ、社会・家族における立場上、鋼のような自制心が必要とされるようになってきた。

 だが、キリストとか仏陀のように欲望を完全に断ち切るのは凡人には不可能である。それで、自宅から徒歩五分のレンタルビデオ屋に行っては、パッケージの裏に載っているあらすじや画像を丹念に眺め記憶し、夜の妄想のエサとした。しかし、この頃から病的に自意識過剰だった俺は、十歳にもなる自分が、戦隊もののビデオを熱心に漁っているのはあまりにも不自然で、その真の目的を見透かされるのではないかと不安に思い、常に周囲に人がいないことを確認していた。
 一度だけ、最早読むだけでは我慢できなくなって、何とかレンタル代分の金をかき集め、ずっと気になっていた『百獣戦隊ガオレンジャー』の「百獣戦隊、全滅」という、タイトルからして涎の出そうなエピソードが入ったビデオを、こそこそとカウンターに持って行ったことがあったが、店員からビデオを借りるためには専用のカードがないとだめだと教えられ、顔を真っ赤にしながらその場を後にし、暫くそのビデオ屋には足を向けなかった。
 見たいのに見られないという悶々とした日々に少しばかりの光が差したのは、ビデオ録画を覚えてからだ。ただ、戦隊ものは日曜の早朝に放映されるので、それを録画した場合、家族の目を盗んで観られるのは、翌週の土曜か日曜の早朝ぐらいしかなかったのだが、三歳の時に両親が離婚し、爾来、母方の祖父母の家で暮らしていたため、老人らしく朝の早い彼らが目覚めるまでの短い間しか、貴重な鑑賞時間を確保できなかった。しかも、彼らを起こさないように、泥棒よろしく、静かに静かに行動する必要があった。当時家で使っていたブラウン管のテレビは、電源を入れると、まるで画面から「電気」そのものが毛羽だっていくような、「ジャワー」という耳障りな音を出し、ビデオを挿入すると、そこでまたガチャガチャと大げさな音を吐き出したので、気が気でなかった。無論、視聴時には、音が漏れないようヘッドホンをすることも忘れなかったし、祖父母がいつもより早く起きたことが気配でわかった時には、光の速さでビデオを止め、何を観ていたのか悟られないようにした。いや、確実に怪しまれてはいたのだろうが、早朝だからかあまり追求もされなかった。これが深夜とかなら、言い訳もはるかに難しくなっただろう。
 こんな風に書くと、毎週熱心に録画して、視聴していたように思われるかもしれないが、根が無精なため、撮り忘れることはしょっちゅうだったし、毎回朝の五時半とかに目覚まし時計なしで起きるのも不可能だった。使用していたビデオも、母親のそれだったので、使いたい放題というわけにはいかない。それに、ヒーロー・ヒロインの敗北シーンを色々観ていると、自分の中でハードルが上がっていき、欲求を満たしてくれるものにぶつかることが段々と少なくなってきて、リスクを冒すことに対する情熱と蛮勇が少しずつ冷めていったのも厳然たる事実。
 そんな中、俺が六年生の時に放映された『忍風戦隊ハリケンジャー』は、特徴のある強敵が多く(例えば、二人の女幹部、ウェンディーヌとフラビージョや、ダーク・ヒーロー的存在のゴウライジャーなど)、ヒーロー側が徹底的に負けるシーンが少なくなかったので、できる限り録画・視聴するように心がけていた。特に、ヒロインが女幹部らにいたぶられるエピソード、ハリケンジャーがゴウライジャーに完全敗北するシーン、それから、味方であったシュリケンジャーが死んだ時などは、股間の膨張が尋常ではなく、腐食した水道管のように、破裂するんじゃないかと怯えたぐらいで、次の日にもう一度──危険を承知で──居間で再見したほど。その時の言い訳は、「友達から勧められて」という苦しいものだったが、特に追求もされなかった。
 恐らく前述の理由から、『ハリケンジャー』という作品自体、今でもヒロピン(ヒロイン・ピンチの略)好きの変態たちから突出して人気があるのだけれど、見逃してならないのが、ヒロイン、ハリケンブルーの衣装である。ハリケンジャーの衣装というのは、忍者がヴィジュアル・イメージとなっていて、ヒロインであるハリケンブルーの場合、スカートに鎖帷子(風メッシュ素材)を組み合わせるという折衷的な方法がとられており、特にブーツとスカートの間の、膝から腿の一部を覆う鎖帷子に、素肌では絶対に表現できない強烈なエロスが宿っていた。ヒロインのイメージ・カラーが、ピンクやイエローといったありがちなものではなく、ブルーだったのもフェチ度が高いといえる。
 ちなみに、ウェンディーヌとフラビージョも、歴代の女幹部の中で、トップクラスに支持されているキャラクターだが、その魅力も簡単に説明しておこう。まず、成功の大きな理由としては、紅一点として登場することの多かった女幹部を、「二人組」に設定したこと。役割としては、露出の多い衣装を着たウェンディーヌが「姉」、無邪気さの塊といったフラビージョが「妹」という感じ。時にお互いをライバル視したり、漫才のような掛け合いが入ったりと、他の戦隊シリーズにはないコミック調な描き方と、その小児的かつ軽やかな「悪」の在り方は、多くのマゾヒストたちの琴線に触れたのであった。そして、俺もまたその一人であったことがわかるのは、もっと大人になってからで、当時はあまり意識していなかったと思う。

 

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マット・コリショー 爛熟した美の世界

 日本では90年代にサブカルチャーの領域で、死体、犯罪、ドラッグ、過激な性表現といったものを、倫理や罪悪感から切り離し、時には肯定的にも扱う、いわゆる「悪趣味」文化というものがあった。現在、その功罪についてよく語られるようになったが、同じ時期、イギリスでも現代美術の分野において似たような現象が起きていた。

 1988年、当時ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジの学生だったダミアン・ハーストが中心となって、ロンドンで「フリーズ」という自主企画展が開催された。学生の企画ながら、ハーストの積極的な売り込みによって、美術界の一部から注目を集めることに成功し、若手アーティストらの躍進のきっかけとなった展覧会だ。

 そして、92年にはサーチ・ギャラリーにて、ハーストも参加した「ヤング・ブリティッシュ・アーティストⅠ」展が開かれ、ハーストとその同世代のアーティストたちが「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」と呼称されるようになり、一つのムーブメントを形作っていくことになる。

 名称的にかなり大雑把なカテゴライズにもかかわらず、彼らが一つのグループのように見えたのは、取り上げるテーマに共通点があったからで、それが前述の死体や犯罪ドラッグ、過激な性表現だったのだ。そういった、社会を挑発するような露悪的な作風が、「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」たちの持ち味でもあった(というか、そういう人がことさら目立った)。中でも悪名高いのが、「ホルマリン漬けのサメ」として知られるハーストの『生者の心における死の物理的不可能性』や、連続幼児殺人犯を描いたマーカス・ハーヴィーの『マイラ』、トレイシー・エミンの『1963から1995に私が寝た全ての人』などである。

 アメリカでもジェフ・クーンズや「ヘルター・スケルター」展が注目を集めていたように、90年代というのは世界的に「悪趣味」が評価されるようになった時代にも見えるがどうだろうか。

 と、ここまで前書きが長くなったが、本当にここで書きたいのは、イギリスのマット・コリショー(1966年生まれ)というアーティストである。

 コリショーは、ハーストの「フリーズ」展にも参加した、ハーストと同じゴールドスミス・カレッジ出身のアーティストで、もちろん「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」にもカテゴライズされている(ちなみに、年はハーストが一つ上)。しかし、日本ではほぼ知名度がなく、ダミアン・ハーストを特集した『美術手帖』2012年7月号に、ハーストのおまけといった感じでささやかなインタビューが掲載されているのが、ほとんど唯一の紹介ではないか。以後、『美術手帖』のインタビューを参考にしつつ、コリショーの作品を観ていきたい。

 コリショーが「フリーズ」展に出展した作品は、「弾痕」という作品で、頭部の銃創を拡大したもの。ぱっと見なんだからよくわからないが、マジマジと見つめると、放射状に広がっているものが髪で、中央にあるのが、銃創だと気づく。この作品が、「フリーズ」展では、もっとも注目されたものだと、『美術手帖』2012年7月号に書いてある。しかし、オリジナルは、展覧会終了後置き場に困って破棄したため、現在あるのはレプリカだとか。

 

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Bullet Hole

 

「弾痕」の元になった写真は、オースティン・グレシャムの『法病理学カラーアトラス』というものからとってきたらしい。

 

事故、自殺、変死を問わず死体の写真が何百点と収録された医大生御用達のこの本が、マーカス・ハーヴィーらハーストの仲間内で回し読みされ、創作のインスピレーションになったのだと言う。ページをめくった瞬間に投げだしたくなるような本らしいが、「生と死を扱っているから抽象画よりははるかに面白くて、インパクトが強かった」と納得のコメント。

 

 いかにも、「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」らしい作品でデビューしたコリショーだが、その後の作品もしばらくはショッキングな効果を狙った、露悪的なものが多い。例えば、シマウマと女の性行為を描いた、「昔ながらのやり方で」とか。

 

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In the Old Fashioned Way

 

 この作品、後ろにモーターがついていて、多分シマウマと女が前後運動するようになっているのかもしれない。コリショーはこの写真を、昔のポルノ雑誌からとってきたという。92年発表。

 

 コリショーが習作の段階を抜け、独自の表現を獲得したのは、90年代後半で、「タイガー・スキン・リリー」や「妖精をつかまえて」などの作品を発表し始めてからだ。この頃から、現実の中に空想を織り交ぜつつ、己のフェティシズムオブセッションを表現することに成功し始めた。特に、花や蝶をモチーフにした作品は彼のイメージそのものとなっていく。

 

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Tiger Skin Lily

 

 コリショーは、「タイガー・スキン・リリー」において、ユリと毛皮を合成することで、架空の花を作り出した。コンピューターによる合成は、コリショー作品の根幹を成す技術だが、素材の選定から、見せ方にいたるまで、とにかく洗練されている。そこには、「爛熟した美の世界」と表現したくなるものがある。果物は腐りかけが一番うまい、とよく言うが、コリショーの作品はまさにそれだ。

 

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Insecticide 24

 

 生まれたばかりの息子が病院から家に帰ることになり、コリショーは部屋を消毒した。その際に死んだ虫からインスピレーションを受けて作った作品なので、「殺虫剤」というタイトルになっている。

 

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Venal Muse, Viridor

 

 ボードレールの『悪の華』からインスピレーションを受け、作った作品。

 

 2000年代に入って、現代美術家と高級ブランドのコラボレーションが増えたが、コリショーも2016年に、「DIOR LADY ART」というプロジェクトに参加して、バッグを作った。ちなみに、コリショーの他に6人の芸術家がこのプロジェクトに参加している。

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www.wwdjapan.com

 

美術手帖』のインタビューで、コリショーは最初からプロを目指したと言っている。

 

僕たちの世代に何か共通点があるとすれば、金持ちの親がいなかったってことかな。昔からアーティストは裕福な出が多かったけれど、僕たちは違う。だから、飯が食えるように売れる作品をつくる必要があったし、プロにならざるを得なかった。何かのときの保険がないから、創作をビジネスのように扱うしかなかった

 

 これを読むと、デビュー作で非常にショッキングな作品を公開しておきながら、その後、そういった露悪趣味を封印していた理由がわかるような気がする。ちなみに、コリショーらが駆け出しの頃、仮想敵だったのは、ニュー・ブリティッシュ・スカルプチュアという一派らしい。

 

 マット・コリショーの作品は、彼のホームページで全て見ることができる。

matcollishaw.com

 

 

 

Color Atlas of Forensic Pathology

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美術手帖 2012年 07月号 [雑誌]

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Mat Collishaw

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